夕映えに染まる優美な五重塔。でも、そのルーツは土饅頭(まんじゅう)のような、似ても似つかぬ姿だった。仏塔はなぜ変容したのか。その複雑なプロセスを独自の視点で解き明かして浜田青陵賞に決まった京都大人文科学研究所の向井佑介准教授はいう。仏塔は高くなければならなかったのだ、と。
「古い寺院は塔が中心。仏教東漸を明らかにするうえで塔の意味は大きい。でも、日本を掘り下げるだけではわからない」
仏教発祥の地インドで釈迦の骨を納めたストゥーパは、もともと半球状のドーム形。塔ではなかった。ところが紀元後に中国に伝わると“高層化”を始める。「仏陀は既存の神仙思想と同一視された。神仙は高い所を好むもの。だから、仏塔も高くなければならなかったのです」
南北朝時代(5~6世紀)になって教義への理解が進むと、塔は仏教世界の中心とされた聖なる須弥山(しゅみせん)と結びついて天上の兜率天(とそつてん)と現世をつなぎ、弥勒(みろく)信仰が盛んに。そんな垂直指向の造形は巨仏で有名な雲岡(うんこう)石窟(山西省)の中心柱などにもみられるという。
ただ、仏教の伝播(でんぱ)において東アジア各地が一様に同じ歩調を取ったわけではない。シルクロードをへて日本へと伝わる過程で広く根づいた共通要素もあれば、土地ごとの風俗や慣習と結びつきながら抜け落ちては新たに加わる要素もあった。
たとえば巨大で壮麗な九重塔は地域を越えて受容された。北魏王朝の都には永寧寺の九重塔がそびえた。南朝の梁(りょう)に、朝鮮半島の新羅に、そして日本では舒明天皇勅願の百済大寺や大官大寺に。為政者や権力者は九重塔の建立を競った。
一方、二つの塔が並び立つ双塔。日本では奈良の薬師寺がおなじみだが、記録によればその先駆けに南北朝や隋唐時代の中国で類例がある。向井さんは、それらに皇帝や皇后らが「二聖」としてなぞらえられたと考え、薬師寺にもその創建にかかわった天武天皇と妻の持統天皇の姿を読み取るのだ。ここにも世俗権力の影が見え隠れする。
この夏、「飛鳥・藤原の宮都」(奈良県)がユネスコの世界遺産に登録された。構成資産の飛鳥寺や川原寺、大官大寺などもまた仏教の定着にヒントを与えてくれる。
金堂、塔、門が一直線に並ぶ伽藍(がらん)配置は東アジア一円にあり、日本でも四天王寺式と呼ばれて初期寺院に多い。ところが最古の本格寺院、飛鳥寺は、なぜか塔の3方を三つの金堂が取り囲む型式。親交が深かったはずの百済よりも、清岩里廃寺など高句麗にみられる特徴だ。一方で、高句麗の塔には平面八角形が目立つのに、飛鳥寺の塔は正方形という違いもあり、一筋縄ではいかない。
「百済と高句麗の折衷式のようにも見える。最初の住持には両国の僧がいたので、高句麗系の人々の参画もあったのではないか」と向井さんはいう。
また、金堂と塔が横に並ぶ法隆寺式の配置は国内での自生か大陸からの伝播(でんぱ)かと議論されてきたが、向井さんはその淵源(えんげん)を中国に求め、遣唐使の見聞を介してかの地の情報が取り込まれた可能性を説く。
多種多様な東アジアの仏塔。大阪府岸和田市と朝日新聞社は9月27日、浜田青陵賞記念シンポジウムを同市で開き、議論を交わす。(編集委員・中村俊介)=朝日新聞2026年8月26日掲載