「百年の時効」で3冠の伏尾美紀、新作「誰何」の技巧がたまらない(第42回)
伏尾美紀『誰何(すいか)』(光文社)はさりげない技巧がたまらない小説だ。
舞台となるのは北海道札幌市である。新内由紀(しんうち・よしのり)という男性が、児童相談所から連絡を受ける。児童虐待対応支援員に応募していたのだが、採用が決まったのである。新内は元北海道警に属する刑事だったのだが、ゆえあってしばらく前に辞めていた。妻の三春はフリーランスのツアーコンダクターとして働いている。こどもはなく、夫婦ふたりの家族であることが後にわかる。
視点人物はもうひとりいる。北海道警察刑事部捜査第1課の砂本修二だ。通報があり、石狩市の国道231号近くにある遊歩道で、男性の変死体が発見された。死因は急性硬膜下血腫、全身に多数の傷があることから、車にはねられたものと思われた。遊歩道に車は進入できない。どこか他で事故に遭って絶命した後、この地に遺棄されたものではないかと捜査陣は推理する。やがて死者の身元が判明する。札幌市東区在住の工藤健斗という29歳の男性だった。砂本は交通捜査課と協力しながら、事件の背景を調べていく。
物語の進行はあえて手綱を引き絞っているかのようにゆっくりで、起きたことをそのまま描写するのに徹している、ように見える。しかし、この序盤にも小説の性質を形作っている複数の要素が振り撒かれている。
工藤の母親が知らせを受けて到着し、事情聴取に応じる。そうした場合に交わされる、ごく当たり前のやりとりと思われる会話の中で、砂本はちょっとした違和感を覚える。それを表に出したことで、一緒に動いていた交通捜査課の捜査員には、こどもを亡くした母親への配慮が足りない、とたしなめられるのである。砂本はこう考える。
――しかし、その母親の気持ちというのが、砂本にはよく理解できないものの一つでもあった。
この一文を読んで、おや、と思った。捜査員という公の一面ではなく、砂本修二の〈私〉の部分が出ているからである。この1行は章の終わりに出てくるので、それ以上掘り下げられない。読者の心に、小さな引っかかりを作るためにそうしているのだ。ここだここだ、と騒ぎ立てるよりも、さりげなく置かれた目印のほうが気を惹く場合がある。
章が代わると、最初の視点人物だった新内が再び語り手になる。試用期間の新内は20代半ばの坂上千鶴という職員について働き始める。彼らが担当する中には、児童相談所の訪問調査を受けることを義務付けられている親もいる。児童虐待の兆候がないか、職員は訪問時に見極めなければならない。ある家族を訪ねたとき、新内は既視感を憶える。
――低所得、シングルマザー、子供を捨てた前歴あり。
似ている――。
似ている、のが何なのかは明かされない。ここでも作者は、語り手の過去という〈私〉を物語の中に差し込んでいる。
このとき新内は、相手を疑うことから入る態度を取ってしまい、同行していた坂上に叱られる。警察官の本能がまだ抜けきっていないのである。少し後で新内が、児童相談所の先輩職員に、問題がある家庭にこどもを安易に戻すべきではないのではないか、実の親と一緒にいるのが本当にいいとは限らないのではないか、という意味の疑義を呈する場面がある。新内の中にあるものが何かということが、そのくだりで少しだけ明らかになる。
徐々に徐々に。しかし、登場人物への関心を読者が失わない程度の情報は出して。そんな感じで新内と砂本という視点人物を作者は育てていく。このふたりがどういう関係なのか、という点にも読者は興味を抱くと思うが、それは比較的早い段階で明らかにされるのはご安心を。ここでは書かずにおく。
すでに警察官ではない新内を訪ねてくる者がある。宝生尊(ほうしょう・たける)という名前の男で、本作の中で最も際立つ個性を持つ登場人物だ。元刑事の新内は人着(にんちゃく)、すなわち人相や服装を覚えるのが得意であるはずだった。ところが宝生を見ても、顔がいっさい記憶に残らないのである。身につけていたものは覚えられても、どんな目鼻立ちをしているかが後から思い出せない。
宝生は警視庁捜査1課の刑事だと自己紹介する。この後新内の前に何度か現れるのだが、そのたびに強烈な強烈な印象を残していく。あるときは、呼び出された新内がJR札幌駅近くのカラオケ店に行くと、個室で宝生がORANGE RANGEの「花」を熱唱しているところに遭遇する。そういう選曲なのか。趣味か。
宝生は、松川美和という名の女性に心当たりはないか、と新内に聞いてくる。その名の女性が都内のアパートで孤独死した。その所持品の中に、生活安全課在籍時代の新内の名刺が含まれていたというのだ。生活安全課は、新内が2年間だけ籍を置いた部署である。
実はこの松川美和という名前は、ふたりの視点人物が出てくる前のプロローグですでに言及されている。孤独死の遺体が発見された時のものだと思われる、杉並警察署の刑事が遺族に連絡をする場面である。だが電話に出た相手はそれを一方的に切ってしまう。「美和という人はとっくに亡くなった」という言葉を残して。
このやりとりの意味が宝生によって明かされる。松川美和という、よく身元がわからない人物がどのような過去の持ち主だったのか、というのが本作における謎の要だ。状況は入り組んでいるが、変人だが有能そうな宝生に解説してもらうことで、どこに謎の所在があるかは明らかにされていく。
その謎について詳しく書くとミステリーのレビューっぽくなるのだが、ここでは止めておこう。巻末に挙げられている参考資料の中に、『ある行旅死亡人の物語』(武田惇志・伊藤亜衣/毎日新聞出版)があることだけ書いておく。同書は、アパートで孤独死した身元不明の人物を悼むために、彼が何者であったのかを突き止めようとした記者によって書かれたノンフィクションだ。それを参考にしつつ、さらにひねった物語が展開されている。登場人物の過去というものは、こうやって浮かび上がらせるものか、と感心させられた。
視点人物の過去と、謎の死者のそれ、現在進行形の刑事事件と死者の秘められた過去、それらが対比されながら進んでいく物語である。ミステリー的な要素、つまり犯人当ての趣向や真相が次第に明らかになっていく過程はさることながら、私はこの、対位法ですべての要素を構成するやり方が小説の肝だと思う。児童相談所が出てくるので書いてしまうが、全体は親子の物語になっている。これも複数の親子が出てきて、どこかひとつの家庭だけが中心になるわけではない。いくつかの例を見ているうちに、読者の中に自然となんらかの考えが浮かんでくるように計算されて書かれている。一方向に誘導しようという構えがないので、作者を信頼しながら読むことができる。
伏尾は2021年に『北緯43度のコールドケース』(講談社文庫)で第67回江戸川乱歩賞を受賞してデビューを果たした。出身である北海道を舞台にした警察小説を主として書いており、2025年に発表した『百年の時効』(幻冬舎)では第28回大藪春彦賞、第47回吉川英治文学新人賞、第79回日本推理作家協会賞長編および連作短編集部門を受賞して3冠を達成した。いつかは直木賞候補に挙がるだろう、と期待されている作家のひとりだが、本作を読んでその日は決して遠くないと確信した。伏尾美紀、もっと上に行ける作家だ。