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太宰治賞・こがわゆうじろうさん ヤングケアラー、中卒、双極性障害。かわいそうな物語を拒否し、物語る側へ

こがわゆうじろうさん=撮影・武藤奈緒美

ひとりでいた20歳の頃、同学年の彼女らは

 12歳から悪性リウマチにかかった母の介護をし、15歳で双極性障害(躁うつ病)と判明。17歳で自活、20歳以降は実家に戻り、介護と仕事に明け暮れる――。小説になりそうな、それらのストーリーにこがわさんは「大したことだと思っていません」「言い訳にしたくない」と繰り返した。

「両親が読書家で、本に囲まれて育ちました。15歳くらいまでは両親、とくに母親の本棚から東野圭吾さん、宮部みゆきさん、吉本ばななさんなどの小説を読みあさっていました。そのうちにサブカル系にハマって大槻ケンジさん、中島らもさんの本やインタビューを貪り読むように」

 中学には1年のゴールデンウィークまでしか行けなかった。集団になじめず、母の介護もあった。

「親から学校へ行けと言われなかったのは助かりました。無理に行かされてたら死んでたかも」

 双極性障害が判ったのは15歳のとき。

「ひとくちに躁うつ病と言ってもいろいろなパターンがあるのですが、僕の場合は7、8年躁のあと、3、4年うつが来て、また7、8年躁が来る、躁がメインのI型。躁のときはテンションが高くなり、けんかっ早くなる。それを抑えつける父や兄に反発して17歳で家を出ました。その頃母はまだ杖があれば歩けていたんで、一人暮らしするなら今しかないとも思いました」

 家賃が安いという理由で縁もゆかりもない兵庫へ行き、ゴミ収集車の作業員やレンタルビデオ店の店員などさまざまな仕事をしながらバンド活動をした。

「20歳のお正月に左手のけがでギターが弾けなくなって、代わりに小説を書くことに。小説家になりたいと15歳くらいから思っていましたが、それまでは冒頭の3,4行でギブアップしていたんです。近所の文房具屋で原稿用紙を買って、シャーペンで110枚ほど、サイコスリラーっぽい話を書きました」

 それは応募せず、次に書いた200枚強の中編を純文学の新人賞に送った。

「ちょうどそのとき、綿矢りささんと金原ひとみさんが芥川賞を獲ったというニュースがしきりに流れていました。僕、おふたりと同じ学年なんです。こっちは書き始めたばっかりで、コンビニでひたすら手書き原稿をコピーしているのに、もう芥川賞を獲った人がいる、と思ったことを覚えています」

行きつけの喫茶店・高倉町珈琲にて。「仕事終わりに閉店までここで書くのが日課です。家だと集中できなくて。とくにポイント5倍デーは逃さず行くようにしています」=写真・武藤奈緒美

母の死、仲間との出会い

 その後、母の病気が悪化。実家へ戻り、介護しながらできる仕事を渡り歩いてきた。

「いやもうなんでもやりましたね。民間委託の図書館員、運送業の仕分け、老人ホームの食事作りなどなど。飽きっぽいんで1年単位でやめちゃってたんですけど、そのうち母親の介護費用をがっつり稼がなきゃいけなくなって、そこからは歯ァ食いしばって働きました。おむつ替えたり、からだ拭いたり、病院やヘルパーさんとのやりとりも僕の担当でした。母が明るい性格だったのがまだ救い。父もサラリーマンから時間の融通の利く仕事に変えて一緒にやってくれましたし」

 まだお若かったのに……大変でしたね。

「その頃はヤングケアラーって言葉もまだなかったんで、そんなもんだと思ってましたよ。今でもそう思っています。2015年に母が亡くなってすぐ当時働いていた会社を辞め、あとは単発の仕事をしながら、小説を書いていました。もう我慢して働きたくなかった。はじめ小説家を目指したのは、アウトサイダーとして生きる大義名分にすぎなかったんです。『目指している』と言えば、定職に就かず、婚活もしない言い訳になった。周りに公募仲間もおらず、年に1作、150枚くらい書いて、友だちに褒めてもらって満足していました。詳しい公募歴は伏せてもいいですか? というのも、何年やってたとか、何作目で受賞したとか言うことで、今現在小説家を目指している人のプレッシャーになりたくないんです。自分がそうだったので。じつは、この『小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。』も怖くて読めなかった。最近の新人賞や芥川賞の受賞作も影響を受けてしまいそうで読めていません。申し訳ないです」

 父とふたりで家を買おうとしていた矢先、父が亡くなり、現在は中古の集合住宅に一人住まいをしている。

「はじめは、小説が書きたいというより、小説家になりたかった。友だちがいなかったんで、小説家になって人に名前を呼ばれたら気持ちいいだろうなっていう功名心とか承認欲求が先行していたんです。でも、だんだん小説の技術を高めることに興味がいくようになって。ヘミングウェイをノート1冊に分析するなど、いいものを書きたい気持ちが強くなりました」

 2021年の終わり、こがわゆうじろう名義でXのアカウントを開設。そこで初めて公募勢の友だちができた。

「それまでもバイト先の友だちと文学フリマに出店してはいたのですが、あくまで遊びの延長。でも公募勢のみんなは本気で小説家を目指していて、自分よりはるかに多く作品を書き、2次通過や最終選考といった結果も出していた。僕もあっち側に行きたいと思うようになって、それまで年150枚だったのを1300枚書くことにしたんです」

A5ノートに1日1ページびっしり日記を書いている。「字で埋め尽くすのが好きなんです。表紙にはその時書いていた小説のタイトルを並べることにしています」。今日もちょっと書きましたよ、と「清さんの取材」と書いたページを見せてくれた。=写真・武藤奈緒美

文学フリマに書いた短編に思わぬ反響

 2023年の終わり、文芸同人誌「Scrap & Build」に参加。2024年に書いた小説がはじめて太宰治賞の2次選考に通る。その後、北日本文学賞で1次通過し、2025年、「タロー・ジ・エンド」を応募する。

「年1300枚書いたうち、一番いいのを太宰治賞に送るって決めていました。それは、太宰に憧れたわけではなく、第2回受賞者の吉村昭さんの後輩になりたくて。吉村さんは自分が介在しない無人カメラのような小説を書く人。実家の本棚で出会って以来、ずっとファンです。太宰治賞は2作まで送れるので、毎回ひとつは自信があるもの、もうひとつは冒険しているものを選んでいました」

「タロー・ジ・エンド」はどちらだったんですか?

「それが、冒険作の方だったんですよ。「タロー・ジ・エンド」はもともと、文フリで40枚の短編として出したもの。noteで取り上げられたり今までにない反響があって、文芸仲間からも、これをもっと膨らませたらって勧められたんです。ただ、自分ではこれまでの作品と何が違うかわからなくて、再現性がないのが怖い。締め切りギリギリに出したので誤字脱字が多く、選考期間中に読み返して、オワッタ……と思っていたほどです」

 受賞の言葉では文芸仲間への感謝が綴られ、「私は、明確にSNSと文学フリマに育てられた作家」という言葉が印象的でした。

「実際、これを応募してみれば?というアドバイスのおかげで受賞できたわけですし、もっと高みを目指そうと思えたのも仲間のおかげ。相談相手ができたという以前に、同じように創作の苦しみを抱える友だちができたことが勇気になった。12歳で学校に行かなくなってギター始めたとき、『高校の同級生でバンド組んだ』みたいな話を聞くと、いいなあって思っていましたが、ようやくそれが自分に訪れたんだって嬉しくて」

 働きながらどうやって1300枚も書いていたんですか。

「僕もそれがむずかしくて、昨年の文学フリマでは『なぜ働いているのに小説が書けるのか』という本を企画・編集しました。Xでつながった公募仲間50人に、朝書いてるのか夜書いているのか、どんなテキストアプリを使っているのか、スランプのときはどうしているかなどアンケートに答えてもらったんです。ちなみに僕は、仕事を選ぶ段階から、18時までに確実に終わって、通勤時間もかからないところを探しました」

文学フリマでこれまで頒布した本。「同人誌仲間も大事なのですが、受賞後最初に電話したのは宅配会社に勤めていた頃の同僚。僕より年下なのに出世払いでいいよっていつもご飯を奢ってくれていた人。なのにつまらないことで喧嘩して疎遠に。電話したら受賞をすごく喜んでくれて、その日久しぶりに飲みに行きました。それが受賞でいちばん嬉しかったことです」=写真・武藤奈緒美

こがわゆうじろうの物語を

「タロー・ジ・エンド」の構想はどこから
「20年ぐらい前に見た北野武監督の『キッズ・リターン』という映画で、主人公がボクシングジムの先輩に教わった反則技を練習中に出してしまう、という一場面があったんです。それがすごく印象に残っていて、手癖の悪いボクサーを書く、というのが最初にありました」

 タローはバイト先のハナコさんが聴いていたBiSHのファンになるという設定。タイトルもBiSHの元メンバー、アイナ・ジ・エンドさんからきています。

「大ファンなんです。なぜ出したかというと、年間1000枚以上書くとなると、自分が飽きない、何かしらのお楽しみが必要だから。これまでも好きなヘヴィメタルバンドを出したり、好きな映画のオマージュを入れたりしてきました」

小説のベースにあるのは、「アウトサイダーがどう生きるか」。「コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』はバイブルといってもいい大切な一冊です。文フリで出した短編から応募原稿に改稿するとき、ボクシングの試合を観に行って、体の動きや試合運びを研究しました」=写真・武藤奈緒美

 タローは捉えどころのない不思議な人物ですね。

「うちの父から影響を受けています。父は青森出身なんですが、東京でも青森でも津軽弁を使っているところ見たことがない。青森出身だから応援する、みたいな地元愛も全然なく、ねぶた祭りにも参加しない。当然読むべき空気を読まないところは、僕も引き継いでいます」

 タローは帰属意識が希薄で、立身出世の物語を描こうとしません。この物語のなさが選評で高く評価されました。

「最近『ナラティブ』(=語り手の視点や体験に基づく主観的な語り)という言葉も流行っていますが、人間ってある程度自分のストーリーを作らないと、何かを選択したり決断したりするときの判断材料がないんじゃないかな。その最たる例が宗教だと思うのですが、タローは事故物件に抵抗なく住んでいて信仰心はゼロ。バイト先のお客さんに愛想よくするとか、東北人っぽくふるまうことにも無頓着で、そういう物語に乗るつもりがない。そんな物語を持たない人間がどうなっていくのか、書きながら探ろうとしました」

 物語を持たない人間、というのはヤングケアラーや双極性障害であることを「大したことない」と言う、こがわさんにも通じます。

「直近で言えば、2017年から2020年までがうつでした。それまで55キロだったのに代謝が落ちてどんどん太っていっちゃって。躁になってこれでも15キロくらい痩せたんですよ。それくらいこの病気は体の病気であり脳の病気だと思っているので、言い訳には使いたくない。今は躁のターンなんですが、けんかっ早くなったり失言が多くなったりを僕が病気のせいにしたところで、周りの迷惑は変わらないと思うし」

 けれど、ヤングケアラーだったことも病気も、実際に大変で困難な状況なのだから言い訳だとは思いませんが……。

「この物語のせいにすれば楽できるって思っちゃえばそこから進歩できなくなる気がして……」

 ああ、でもそうか、小説家を目指すっていう物語には乗れたんですね。

「そうですね。それは被害者としての物語じゃなくて、こがわゆうじろうの物語のような気がしたんです」

【次号予告】次回は特別版「小説家になりたい人が、小説を選ぶ人に聞いてみた。」と題し、野間文芸新人賞、三島由紀夫賞などの選考委員を務め、『デビュー作を書くための超「小説」教室 増補版』を刊行した高橋源一郎さんが登場予定。