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六十二年後の読者 津村記久子

 八月のとんでもなく暑い盛りに、昭和三十九年発行の本を読んでいた。一九六四年、今から六十二年前に印刷された、新書サイズで二段組の細かい植字、315ページ。紙は当然黄ばんでいたけれども、普通に読めた。

 当時の定価が350円で、わたしは去年438円で入手し、350円の送料を払っていた。古書だ。いちおう、九十年代に発行された文庫の版もあったのだが、それには今でも三千円近い値がついているので、当時のわたしは、とにかく読めたらいい、ということでその古本を買ったのだと思う。三千円払っても惜しくない内容なのは知っているが、それなら他のもっと高値で売られている同じ作家の本を買うべきだと思ったのだろう。

 ひどい言い方をすると、その本は六十二年前のぼろぼろの紙束なのだが、ひっきりなしにおもしろいことが書かれていた。次々と新しい登場人物が出てきて、話を収斂(しゅうれん)させたり、かと思えば意外な方向へと導いていく。書名は〈縞(しま)模様の霊柩(れいきゅう)車〉だ。作者はロス・マクドナルド、翻訳は小笠原豊樹。

 ロス・マクドナルドとは、自分が同じ職業とは思えないぐらい技術も知名度も差があるので、「わたしの本が六十二年後も誰かの手に……」などという寝言は一切思わない。ただただ、六十二年前に翻訳する価値があるとされた本文が、もはや古すぎて逆に生きてるんじゃないかと感じさせる、小口が柔らかい紙束の上で、六十二年後の今もずっとおもしろいことが奇跡に思えた。

 半分を越えたあたりからは、毎回「ありがとうございます」と言いながら本を閉じていた。ロス・マクドナルドの本はだいたい「ありがとうございます」と言って読んでいる気がするけれども、その本は発行から現在の距離が遠すぎて、ほとんど「信心」という感じがした。

 六十二年を生き延びた植字が読者を拝ませる。本はつくづくすごいメディアだ。物理的にすごいものだ。=朝日新聞2026年9月2日掲載