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よくある話 柴崎友香

 少し前の話だが、すんでいた賃貸の部屋を引き払うときのこと。明け渡しの日に室内の確認を受けて鍵を返却した。来月末に敷金を振り込むと不動産会社の担当者は言った。

 しかし、期日を過ぎても音沙汰がない。連絡すると、芝居がかった調子で、いやあ、それがですねえ、とオーナー様が不具合を訴えていると言う。明け渡しの確認書ももらっているし、「オーナー様」はその会社の社長である。居住中も対応に疑問が度々あった。怪しい言い訳が終わると、来月には振り込みますから、と言ったのだがその後も振り込みはなく、私はアメリカ滞在に出発となった。

 メールの返信はなく、時差で電話しづらいしと思って地図アプリで見てみると「敷金を返してもらえなかった」の口コミがいくつもある。今までの経験上、まず試してみるのは男性に連絡してもらうことだ。友人に頼んで電話してもらうと、即、丁重なお詫(わ)びのメールが来て、二十四時間も経たないうちに振り込みがあった。なにも強面(こわもて)の人にすごんでもらったわけではない。先日、この話を女友達にしたところ、彼女も賃貸の部屋の管理会社に不具合の対処を頼んだところいっこうに対応がされなかったのに、夫が連絡したらすぐに解決したそうだ。

 よくある話だが、少し前までは、女性、あるいは取り合ってもらえないことが多い立場の側の人に対して、「言い方が悪いんじゃないの」「伝わるように言えばちゃんとやってくれる相手だよ」などと言われることもまた多かった。今は、男性や強い立場にはまったく違う態度のケースが往々にしてあり、それは態度を変える側に問題があって、個人の能力の問題ではないと共有されるようになったのはよかったと思う。思うが、男性に頼んだことは、やはり自分の気持ちをすり減らす。

 件の部屋は、今まで住んだ中でいちばん気に入っていた。場所も部屋からの景色もよかった。でも、出てよかった。=朝日新聞2026年3月11日掲載