一昨年、69歳で急逝した車谷長吉さんは、容赦のない私小説で人を傷つけるのみならず、エッセーにも平気でうそを盛り込み、しばしば筆禍を招いた。加えて強迫神経症を患い、自分で自分を激しく苦しめる姿に、見守る詩人の妻も苦しむ。「壮絶な」と言いたくなる結婚生活を振り返っているのだが、どこか恬淡(てんたん)として、すがすがしくさえあるのが不思議だ。
「詩を書くって、地面から浮き上がっているようなところにいるんですね。だから現実だと思えなかったのかな。その通り書いたら詩になるんですから」。夫の神経症を書いた詩集『時の雨』では読売文学賞。書かれた夫は「われながら鬼気迫る」と評価し、ともに喜んだ。物書き同士、互いを認め合う夫婦でもあったのだ。
40代半ばに出会い、夫48歳、妻49歳での初婚。なぜ結婚したのかインタビューで聞かれ、「この人を見届けようと思った」と答えると「車谷はいやな顔をしていた」そうだが、残念なことに、その通りになってしまった。
執拗(しつよう)に手を洗い続けて水道料金が四倍近くにもなったり、足裏に付喪神(つくもがみ)がついたと言って家中を拭いたり、神経症の症状は深刻な一方で、校正の請負仕事をしているところに「殿、内職でござるか」と声をかけると「藩の財政が逼迫(ひっぱく)しておってな」と答えるなど、変にユーモラス。「クスッと笑っちゃう。かわいらしいところがあるんです」。実は、車谷さんは漫才師になりたかったそうなのだ。だから漫才師で芥川賞を受けた又吉直樹さんに「嫉妬したでしょうねえ。生きていたら」と言う。
晩年、次第に心身が衰える様は痛々しい。亡くなった原因は誤嚥(ごえん)性の窒息だが、何を詰まらせたのか、「手首に数珠を巻いて」ワープロを打ち、初めて明かした。気配が残る家で書いていた10カ月ほど、「書いていいのかびびると、書いてしまえ!とけしかけられるような感じだった」という。ゆえにこの本は「車谷との共著」。生まれ変わったら、また車谷さんと? と聞くと即座に、「いや、それは結構です」と笑って答えた。
(文・大上朝美 写真・郭允)=朝日新聞2017年07月02日掲載
編集部一押し!
- インタビュー 「尾上右近 華麗なる花道」インタビュー カレーと歌舞伎、懐が深いところが似ている 中村さやか
-
- 中江有里の「開け!本の扉。ときどき野球も」 生きるために、変化を恐れない。迷いが消えた福岡伸一「生物と無生物のあいだ」 中江有里の「開け!野球の扉」 #13 中江有里
-
- コラム 三浦しをんさんエッセー集「しんがりで寝ています」 可笑しくも愛しい「日常」伝える 好書好日編集部
- 大好きだった 「七帝柔道記Ⅱ」の執筆で増田俊也さんが助けられた「タッチ」と「SLAM DUNK」 増田俊也
- 小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。 【特別版】芥川賞・九段理江さん「芥川賞を獲るコツ、わかりました」 小説家になりたい人が、芥川賞作家になった人に聞いてみた。 清繭子
- インタビュー 鈴木純さんの写真絵本「シロツメクサはともだち」 あなたにはどう見える?身近な植物、五感を使って目を向けてみて 加治佐志津
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(後編) 辞書は民主主義のよりどころ PR by 三省堂
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(前編) 「AI時代」の辞書の役割とは PR by 三省堂
- インタビュー 村山由佳さん「二人キリ」インタビュー 性愛の極北に至ったはみ出し者の純粋さに向き合う PR by 集英社
- 朝日ブックアカデミー 専門外の本を読もう 鈴木哲也・京大学術出版会編集長が語る「学術書の読み方」 PR by 京都大学学術出版会
- 朝日ブックアカデミー 獣医師の仕事に胸が熱く 藤岡陽子さんが語る執筆の舞台裏 「リラの花咲くけものみち」刊行記念トークイベント PR by 光文社
- 朝日ブックアカデミー 内なる読者を大切に 月村了衛さんが語る「作家とはなにか」 「半暮刻」刊行記念トークイベント PR by 双葉社