石牟礼道子という人を、熊本で縁があったこともあり、顔が激似してることもあり、詩的代理母みたいなつもりでいたのである。それでせっせと熊本に帰っては、石牟礼さんに会いに行くということを数年来続けていたのである。その訃報(ふほう)を聞いて以来、自分なりの供養と思って必死に追悼文を書いていた。自分のを書きながら人の書いた追悼文をいくつも読んだ。それがどれも感動的におもしろい。私の見なかった石牟礼さんが現れている。石牟礼さんとの関わりが一人一人とても個人的だったというのがわかる。この「ひもとく」に私なんか出る幕じゃないと思ったが、それを思えば、読み方も生きていた石牟礼さんとのつきあい方も、一人一人違ってそれでいいのだろう。
全身全霊を傾けて、私は『苦海浄土』をおすすめする。これは必読だ。日本語が、現代文学の中で、どこまで行けるかがよくわかる。その先に大きな穴がぽっかりあいていて、その先が世界文学につながっているのもわかる。人の生きるは死ぬで、死ぬはすなわち生きるだということもわかる。
生きるは死ぬる
それから『春の城』をおすすめする。これは島原の乱の話だが、半分くらいまで乱も何も出てこない。キリシタンは出てくるが、それよりも出てくるのが人々の生活だ。小麦を育てて収穫して粉にしてまるめて、大豆を育てて収穫して炒(い)ってひいて団子を作るというふうに。それが日常的に細かくありありと描き出され、人の食べて生きるが、生きる死ぬるに、島原の乱に、つながっていくのである。
スタインベックというアメリカの作家に『怒りの葡萄(ぶどう)』という、やはり生きる食べると社会の不安が交互に出てくる名作がある。別に影響があるとかいうんじゃない。偉大な作家はそれぞれに同じようなことをするのだなあと思っただけだ。
歴史的な深みに
聞き書きの体裁をとっている『西南役伝説』は、九州にふかく爪痕を残している西南戦争についてである。つまり『苦海浄土』が同時代の声を聴き取ったものとしたら、これはもっと歴史的な深みに降りていって過去の声に耳を澄ます。そしてここも、戦争の中で食べることがさんざん出てくる。逃げる兵も、隠れて息をひそめる民も、食べる、生きる、そして死ぬる。
石牟礼文学を朗読しようという企画が何度かあった。ところがいざ朗読しようと思うと、東京生まれの東京育ちの私には、どうしてもあの水俣的天草的道子弁が声に出せない。いいところはみんなそれなのだ。それで能の『不知火(しらぬい)』(石牟礼道子全集16巻所収、藤原書店、9180円)か『あやとりの記』(福音館文庫、810円)の中のお経のような詩を読んだ。
十方無量 百千万億 世々累劫 深甚微妙 無明暗中 流々草花 遠離一輪 莫明無明 未生億海(あやとりの記)
標準的な日本語ではなく、古典のことばを聴き取ってそこに憑依(ひょうい)した石牟礼さんがいる。
それで気がついた。いかにも耳から聞こえてくるような石牟礼さんのことばだが、目で読むのが最終形態なんである。
「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす」(苦海浄土)というようなことばを読むのはたやすいが、声に出して言うのはむずかしい。石牟礼道子の文学のすごさ(の一つ)は、音だけのことばを、音を持たない人々に向かって、まるで音がありありと見えるように表記して納得させたところである。
説経節、謡曲、声に出して人に伝える文芸はいろいろある。石牟礼さんは、『苦海浄土』から一貫して、そういう声に出す文芸を、力強く紙の上に叩(たた)きつけて、私たちの脳内に、声を再現させてきた=朝日新聞2018年3月4日掲載