子供のころに住んでいたビルの一階にパン屋があった。そこは街で評判の悪いパン屋で、前日のサンドウィッチを売っているとか、コロッケパンのキャベツが腐っていたとか、食パンにカビが生えていたなどなど、悪い噂(うわさ)がたくさんあった。
主人が単にケチだったのか、ギリギリで商売をやっていたのかわからないが、人が口にするものなので、そのようなことは決してあってはならないし、現在だったら即営業停止になっていただろう。
しかしわたしは、このパン屋で買う甘食が大好きだった。甘食は透明のビニール袋に五個がパンパンに入っていて、得した気分にもなれた。
パン屋の商品でいえば、甘食は脇役だ。本来はサンドウィッチや菓子パンの隅に追いやられている。だが、このパン屋は、そのようなメインのパンに問題があったので、母には、「あそこで買い物をしてはいけない」と言われていた。それでもわたしは甘食を買い続け、しばらくすると母も、甘食だけならとあきらめていた。
他のパンを買ったことがないので、評判の悪さを実証できないが、従姉妹(いとこ)は、そこで買ったパンを口にしたら、カビが生えていたと話していた。しかし甘食に限っては、腐っていたり、カビが生えていることはなかった。
母は、いつも甘食を食べているわたしを見て、「なんでそんな特徴もないものが好きなのかね」と言っていた。今にして思うと、確かに甘食は、ただ甘いだけで、パサパサしていて、なんの特徴もない。だがわたしは、その特徴の無さが好きだった。
パン屋のおじさんとおばさんも、クレームをつけたら、逆に怒り出すとか、人間的にも評判はよくなかったけれど、嬉(うれ)しそうに甘食を買いに来るわたしには優しかった。
だが、どちらにしろ、そのようなパン屋だったから、しばらくすると潰れてしまった。そしてわたしは、甘食を食べなくなった。
大人になって、パン屋で甘食を見つけ、懐かしくなり、購入し食べたことがある。すると、あのとき食べていた味とまったく変わらないように思えた。同じパン屋なのではないかと思ったくらいだ。
つまり甘食は、もともと特徴のない食べ物なので、どこの店でもだいたい同じ味なのだ。
最近は小田原にある、守谷製パン店の甘食がお気に入りだ。小田原に行くと、いつも買ってしまう。だが、家に持って帰っても、あまり喜ばれない。それでもわたしは、甘食が好きなのだ。朝、甘食を食べ、口の中がパサパサになってきたところに、牛乳を流し込むのは、最高のひとときだ。=朝日新聞2017年11月18日掲載
編集部一押し!
-
文芸時評 生成AIの民主化と新たな言語環境、2025年の文芸を振り返る 朝日×毎日「文芸時評」筆者対談 朝日新聞文化部
-
-
新作ドラマ、もっと楽しむ ドラマ「人間標本」主演・西島秀俊さん×原作・湊かなえさん 子を手にかけた親の奥底「日本独特の感性」で 根津香菜子
-
-
朝宮運河のホラーワールド渉猟 織守きょうやさん「あーあ。織守きょうや自業自得短編集」インタビュー 他人事ではない怖さに包まれる 朝宮運河
-
杉江松恋「日出る処のニューヒット」 宮島未奈「成瀬は都を駆け抜ける」 最強の短篇作家の技巧を味わう(第33回) 杉江松恋
-
インタビュー 彬子さまエッセイ集「飼い犬に腹を噛まれる」インタビュー 導かれるまま、ふわりふわり「文章自体が寄り道」 吉川明子
-
オーサー・ビジット 教室編 情報の海に潜む罠 感じて、立ち止まって、問いかけて 国際ジャーナリスト堤未果さん@徳島県立城東高校 中津海麻子
-
トピック 【プレゼント】第68回群像新人文学賞受賞! 綾木朱美さんのデビュー作「アザミ」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】大迫力のアクション×国際謀略エンターテインメント! 砂川文次さん「ブレイクダウン」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】柴崎友香さん話題作「帰れない探偵」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
インタビュー 今村翔吾さん×山崎怜奈さんのラジオ番組「言って聞かせて」 「DX格差」の松田雄馬さんと、AIと小説の未来を深掘り PR by 三省堂
-
イベント 戦後80年『スガモプリズン――占領下の「異空間」』 刊行記念トークイベント「誰が、どうやって、戦争の責任をとったのか?――スガモの跡地で考える」8/25開催 PR by 岩波書店
-
インタビュー 「無気力探偵」楠谷佑さん×若林踏さんミステリ小説対談 こだわりは「犯人を絞り込むロジック」 PR by マイナビ出版