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「土方巽―衰弱体の思想」書評 「踊り続ける人」を精緻に読む

評者: 宮沢章夫 / 朝⽇新聞掲載:2017年03月26日

土方巽―衰弱体の思想 [著]宇野邦一

いまもまだ、私を含めた多くの者が土方巽(ひじかたたつみ)に興味を持つ。それは不思議だ。なにより土方を考えることの出発はそこからはじめるべきだろう。著者も土方のダンスを観(み)たことがないと語るが、私もまた、「土方巽という存在」以上のことをほとんど知らない。『美貌の青空』『病める舞姫』という著作によって、言葉の人としての土方は知っていても、著者が書くようにそれらにあるのは、次のような奇妙な言語の連なりだ。
 「繰り返し読みながら読み方を見つけなければ読むことのできない本」
 土方巽はそうして読む者を挑発する。挑発することで相手を身構えさせた。だが、本書に引用されている吉本隆明の言葉、「わたしはかれの舞踏をみたことがないが、言葉をみれば舞踏をみたとおなじことになる」にはべつの驚きがある。著者はそれについて「不用意」だと書く。たしかにそうだが、土方をなにも知らない立場で本書を語ることに私も躊躇(ちゅうちょ)する気持ちを持ちつつ、べつの視点から考えると異なった姿として本書を理解することになる。実際に土方巽の踊る姿を観ていない者に対して著者は、同様に観ていない者として(けれど生前に交流があった者として)、『病める舞姫』をはじめ、土方が残した膨大な言葉、あるいは、土方が踊るのを観た「特権的な者らの語り」からその姿をくっきりとした像として示す。
 いわばこれは、土方巽ガイドブックである。
 そう書く私の言葉を、ひどく軽い印象だと非難する者は絶対にいる。なにしろ土方巽は、著者が書くように「ぶあつい神話的オーラで囲われた存在」だったのだから。だが、そのガイドブックがきわめて精緻(せいち)で、深い内容を伴っているとすればどうか。著者は書く。
 「貪婪(どんらん)に奪い、豪奢(ごうしゃ)に開き、けっして停滞しない人、彼はまだ踊りつづけている。『土方巽』という固有名は、たしかにもはやひとりの個人に属するものではなかったからだ。」
 本書は、ときにアルトーを補助線にし、三島由紀夫を、寺山修司を、そして中西夏之を、あるいは、補助線がスイカの場合もある。なかでも印象に残ったのは、中西夏之を通じて語られる土方だ。両者の表現への理解は異なる。「中西が『ペラッペラッ』の質感やカタチを好む」と著者は書くが、そのペラッペラッに私が共感するからだ。
 土方巽はちがう。なにがちがうか。それを読解するのに、放り出すように書けば、語り得ぬものを語ることの晦渋(かいじゅう)さだけでなにか語ったかのようになるが、著者はきわめて明瞭な分析で土方巽を読む。とても刺激的だ。
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 うの・くにいち 48年生まれ。立教大学名誉教授(フランス思想)。著書に『アルトー 思考と身体』『ドゥルーズ 流動の哲学』など。訳書にドゥルーズ、ガタリ著『アンチ・オイディプス』など。