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芸術家の魂、だって? 丸山健二

 文学的な精神だの、芸術家としての魂だのという、創作の世界にはありがちな金科玉条のたぐいだが、しかし、それもこれも煎じつめるならば、まずは肉体がちゃんとした形で存在してのことである。つまり、アスリートたちと同様、不摂生な暮らしから素晴らしい結果など生まれるはずもなく、「生まれてきてごめんね」式の、だらしなさを競い合い、ぶざまな生き方を売り物にして得られる共感は、そんな書き手と同類の薄気味の悪い読み手にしか与えられない反応であり、その異様な特殊性こそが文学の本質であり、芸術を理解するための必須条件であるなどと思いこむことによって、おのれの劣等性を隠蔽(いんぺい)しようとしても、結局は救いがたいだらしなさが作品にあふれてしまい、作文に毛が生えた程度の、少しばかりていねいに書いた台本くらいの、あまりに稚拙な文章に終始する代物となる。
 ところが、それをよしとする幼稚な価値観が、手軽に酔えるという利便性によってたちまち蔓延(まんえん)し、数の多さによって商売になることで主流をなし、ときたま浮上してくる、高質で高次な作品は、そんなものを認めてしまったら自分の立場がなくなるという、焦燥と嫉妬心からことごとく排除されてしまった。そしてその反動として、もっと奥深い、魂や精神の核に触れてくるような、知情意が見事にまとまった真の文学作品と出会いたがっていた人々は、呆(あき)れ果てて諦め、立ち去ったきり、二度と舞い戻らなくなった。かくして、この非芸術的な国における、文学とは名ばかりの文学は、権力や権威に露骨になびき、お手盛りの賛辞による高い位置づけにより、素人目にもあんまりなレベルに引き下げられ、背を向けられ、商売としても成り立ちにくいものと化し、現在の憂き目を差し招いた。
 「心のままに書いたのだから文句あるか」が決め台詞(ぜりふ)の、とんでもない持て囃(はや)され方をしたせいで自分を完全に見失った大御所たちは、ほとんど書き殴ったとしか思えぬ稚拙な文章をだらだらと綴(つづ)りながら、複数の美人に挟まれて苦悩する優男の主人公におのれの憧れを露骨に託した恋愛模様を描き、そうすることでころがりこんでくる大金を飲み食いに注ぎこんでいるうちに、体調を崩し、何よりも頭脳の働きを麻痺(まひ)させ、心も精神も肉体から派生したものであることに気づいたときには、もはや完全に手遅れのありさま。あとはもう、そんな末路を「芸術家らしい最期」という言葉で無理やり飾り立てるばかりだが、後世に引き継がれるべき価値の作品などあろうはずもない。=朝日新聞2017年06月24日掲載