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小笠原返還50年を読み解く 翻弄された「帝国」の最前線

 6月26日、小笠原諸島の施政権が米国から日本に返還されて半世紀を迎える。現在、一般住民が居住しているのは東京都心の南方約1千キロに位置する父島と母島だけだが、はるか東方に位置する南鳥島、父島から200キロ以上南方の硫黄列島(火山列島)なども含めて、広大な領域が「小笠原諸島」と総称され、行政上は全て東京都小笠原村に属している。
 小笠原は元々全域が無人島だった。1830年、ハワイから約25人の欧米人や太平洋諸島民が父島に入植する。北西太平洋を往来する欧米の捕鯨船からの経済的需要が見込まれたからだ。その後も世界各地をルーツにもつ人々が集まり、父島や母島は北西太平洋の寄港地として発展していく。1850年代、米海軍艦隊を率いるM・ペリーが浦賀来航に先立って父島に寄港して小笠原の米領化を図る。また田中弘之『幕末の小笠原』が描くように、60年代には幕府が中浜万次郎(ジョン万次郎)を通訳として咸臨丸で官吏団を派遣し、領有・入植事業を試みた。だがいずれも短期間で頓挫し、小笠原はどの国家にも属さない自律空間であり続けた。

日米間の核密約


 1876年、明治政府は欧米諸国の同意を得て小笠原の領有に成功する。先住者は日本籍に編入され、本土からの本格的な入植が始まった。糖業や野菜栽培が主産業として定着し、父島や母島は日本帝国の「南洋」入植地のモデルとなっていく。1890年代には硫黄列島でも入植が始まり、糖業やコカ栽培を主産業として発展していく。
 だが父島は1920年代以降、米国を仮想敵国として要塞(よう・さい)化される。30年代に入ると硫黄島にも日本軍飛行場が建設され軍事化が進展した。そして日本の敗色が濃くなった1944年、日本軍は小笠原全域の住民約7千人を本土へ強制疎開させる。一方、16~60歳の男性約800人は島々に残留させられ、軍に徴用された。硫黄島では凄惨(せいさん)な地上戦が行われ、徴用された島民も大半が犠牲になった。
 敗戦後、米国は硫黄列島を含む小笠原全域を直接占領下に置く。例外的に帰島を認められた父島の先住者系(欧米系)島民約130人を除き、米軍は島民の帰島を拒み続け、小笠原を秘密裏に核基地化した。68年、小笠原の施政権が日本に返還され、父島や母島ではようやく島民の帰還が許された。だが硫黄島は米軍に代わって自衛隊の管轄下に置かれ、帰島は認められなかった。真崎翔『核密約から沖縄問題へ』が明らかにしたように、返還後も米軍が島に核兵器を持ち込める密約が日米間で交わされていたためだった。
 筆者は、小笠原諸島民の200年にわたる特異で複雑な歴史経験を調査研究してきた。近年では各地に離散している硫黄島民1世を訪ね、戦前の島での生活、強制疎開や地上戦の経験、戦後の異郷での労苦について聞き取りを進めている。強制疎開以降、現在に至るまで実に74年も故郷を失ってきた硫黄島民は、戦後本土社会が「平和」や「豊かさ」を得る代わりに踏み台にした存在である。
 この半世紀、父島や母島は観光業を中心に発展してきた。古村学『離島エコツーリズムの社会学』が描くように、そのキーワードは環境保護と両立する観光(エコツーリズム)だ。動植物の固有種に恵まれる小笠原は2011年、世界自然遺産に登録された。だが、貴重な自然環境が残された背景に、島が秘密基地化され島民が長らく帰還できなかった苦難があることは、あまり知られていない。返還50年の今年は、20世紀の「帝国」「総力戦」「冷戦」の最前線で翻弄(ほんろう)されてきた小笠原の歴史経験が、日本社会で広く共有される契機になるべきだろう。=朝日新聞2018年6月16日掲載