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【第39回日本SF大賞受賞決定】幻想小説というレッテルなら作家でいられるかも 「幻の作家」山尾悠子さん1万字インタビュー

文・写真 山崎聡

――『飛ぶ孔雀』の前半部は自身初めての文芸誌掲載でした。

 私は40年ぐらい前に(執筆を)スタートした人間で、途中で育児休暇みたいなブランクが長かったりするんですけれども、とにかく40年前に世に出た時といまとは、まったく状況が違っていたんですよね。たまたまご縁があってSFの場所から出たのですけれど、ほぼ最初に書いた「夢の棲む街」がSF専門誌に載ったものですから、安部公房さんがご覧になって気に入ってくださったらしくて、文芸誌の方に紹介してくださったんですよ。文芸誌に向いてるんじゃないかと思われたらしくて。で、文芸誌の方から連絡があったんですけれど、それまで私、文芸誌は読んだことがなかったので、びっくりして読んでみたら当時は私小説全盛みたいな感じで、いまとはまったく違っていたんですよね。大変困ってしまって。私自身も純文学志向はまったくなかったし、文芸誌の方でも私のようなものを受け入れるような態勢ではまったくなかったし。いちおう書いて渡したんですけれど、残念ですが、というお返事で(掲載には至らなかった)。なので、もう文芸誌はご縁がないものときっぱり思ってたんですよね。

 でも、その後、状況が変わってきたなっていうのは一応わかってました。特に長野まゆみさんが出ていらっしゃったときに、話が違う!こういうのは駄目なんじゃなかったのか!と思いましたけれど、その後もどんどん状況が変わって。空想的な小説とか、若い女性の活躍が多いのがすごくうれしいんですよ。いま女性で奔放な想像力を駆使したような小説を書いてらっしゃる人がとても大勢いらっしゃいますよね。私の頃は、女性の書き手はプロレタリア系であるとか、身の回りの実生活を題材にしたものとか、女の一生ものとか、女流作家はそういうものを書くものだとずっと思われてきたようなところがあったんですけど、実際には地下水脈のようにあったはずなんですよ、女性たちの奔放な想像力が、地下に沈んで。

――「文学界」(文芸春秋)から声がかかるまでは考えもしなかった?

 まったく考えてなかったですね。だから、初めて「文学界」を読んで(笑)。割とびっくりしたのは、創作と批評が2本柱になってるんだなって。まったくの部外者から見ると、ああ、そういう世界なんだと思ってびっくりしました。

――『ラピスラズリ』(2003年、国書刊行会)以来、15年ぶりの連作長編です。作品世界に通底する〈不燃〉のイメージはどこから?

 火が燃えにくいというイメージについて考えて書いたら、こんなことになってしまいました(笑)。『ラピスラズリ』が〈冬眠〉というイメージを扱ったのは、もちろん自分が長い休筆期間から復帰した人間ですので、そのイメージをついつい重ねてしまったんですけれども。(不燃は)どこからきたんですかねえ。こういうことは書き手にとってだけの問題で、読み手にはまったく関係ないと思うんですけれど、そもそも『歪み真珠』(2010年、国書刊行会)の中に「向日性について」っていう短い掌編小説があったんですけど、あれ本当は一つだけじゃなくて全部で三つ書く予定だったんですね。「向日性について」と「親水性について」と「不燃性について」と。残りの二つは書かないまま、(編集者に)もういい加減にしなさいって原稿を持っていかれてしまったので(笑)。「親水性について」というのは短い小説で(文学ムックの)「たべるのがおそい」(書肆侃侃房)に書きまして。「不燃性について」も短い掌編小説として書く予定だったんですけれど、このイメージが書かないまま残っていたので、これをもとにして、もうちょっと空想する力を大きくして、少し長めの小説にできないかなと思ったのがきっかけですね。

――「Ⅰ 飛ぶ孔雀」より「Ⅱ 不燃性について」が先にあった?

 そうでもないんですけれどね。予定としては、前半が純粋に日本のイメージ。後半が完全に架空の世界になる予定だったんです。

夢日記から始まった文章世界

――ここまで日本的なイメージは珍しいのでは?

 完全に架空の世界を文章の力で作り上げるというのも面白い作業ですけれど、同じ文章の力で身近な日本の世界を文章世界として作り上げるというのも、同じ比重で面白い作業だと私は思ってるんですね。だから最初に「夢の棲む街」を書いた後、すぐ次に「月蝕」っていう京都の学生たちを書きましたし。架空の世界を言葉で作り上げることができるんだったら、その同じ言葉を使って、自分が見知っている現実の世界を文章世界として作り上げることができないかなあという興味であれをやったので。だから、基本的に最初からそうでしたでしょう?みたいな。今回初めて急に日本回帰したわけではなくって。後半がとにかく架空の世界になる予定だったので、前半はその対比として、非常にディープに、自分にとっての日本のイメージを徹底的に詰め込んでやろうと思って。でも後半があんまり架空の世界にいかなかったので、ちょっとそのあたり、空回りしてしまったかなという気はするんですけれども。

――長編とはいえ、冒頭からつながりのみえない短い断章が続きます。

 『ラピスラズリ』もそうなんですよね。ファンタジーっぽい「竈の秋」まで読んできて、そしたら急にまったく関係のない日本の話が入ってきて、最後は聖フランチェスコ。一見して、なんでこう並ぶんだと(笑)。

読み手の方にとってはもう、わけがわからないでしょうけれど、書き手にとっては当然の並びなので、うまく説明できないんですよね。

――『飛ぶ孔雀』でも断章の並び順は決まっていましたか?

 順番は最初から決まってましたね。でも最初から順番に書いていったんじゃなくて、書きかけてちょっと置いておいて次を書いたりとか、そういうのはありましたけれど。並びはもう、こういう並びで他はないって最初から決まってました。

――短編と長編の違いで意識することはありますか?

 基本的には短編型(の作家)だと思うんですけど、短編を書く場合にしても短い章立てをして、短い文章のかたまりを羅列していくような書き方をするのが一番性に合っているものですから……。いつも思ってるんですけど、もしかしたら小説ではなくて、小説とはちょっと違うものを書いてるのかもしれないみたいな意識がずっとあるんです。

――具体的には、詩のようなものですか?

 私はたまたまSFコンテストに応募するというかたちで出発してしまったので、私にとってSFとはいったい何かという問題にずっと足を取られ続けているようなところがあるんですけれど。たとえば、現代詩の雑誌に応募するところから始めていたら、ああこの人は詩を書く人だから、そういう人の書いた小説なんだなと、もっと自然に受け止めていただけたかもしれないなという思いはずっとあるんです。自分で文章というものを意識して書き始めたのが夢日記でしたので。

――いつごろのお話ですか?

 高校生から始めて、大学生の頃が一番よく書いてましたね。「夢の棲む街」なんて自分の夢日記のなかから取り出したイメージがずいぶんあります。

鏡花で学んだ小説の読み方

――読書遍歴について。原体験といえるものは?

 不思議な小説に出会った最初の驚きは、高校生の頃の泉鏡花。父が読んでいた全集の端本がうちにぱらぱらっとあって。まったく予備知識なしに読んだら、わけがわからなくって。何度繰り返して読んでも主語があったりなかったりするし、意味が全然わからなくって、これを何とか誰かに説明してほしいとすごく思ったんですよね。で、大学に入った頃は、ちょうど泉鏡花の再評価が始まった時期で、「現代詩手帖」で泉鏡花の特集号が出たりしたのが皮切りだったと思うんですけれど、鏡花とはこういう作家で、と世界を説明してくれてたわけです。小説ってこういう読み方をするのか、みたいな目がひらけたのはそれが最初だったので。だから(大学の)卒論を泉鏡花で、というのはまったく迷いはなかったですね。(鏡花は)まったく解説なし説明なしでいきなり現物にあたっても、わからないですよ。特に初期作品の巻が何冊かあって、「化鳥」とか、何これはって(笑)。

――卒論の内容は覚えていますか?

 鏡花のある種の小説に共通するんですけれど、川の上流に行くと隠れ里があって、そこに「母」のイメージに重なるような妖しい女の人がいて、というパターンが非常に多いんですけれど、そのパターンについて書きました。脇明子さんの『幻想の論理』っていう本がそうしていて、それの影響丸出しみたいな、あんまり独創的なものを書いたわけじゃないんですけれど。

――『飛ぶ孔雀』では講談調の体言止めが多くみられます。

 泉鏡花も体言止めで小説が終わったり(笑)。あれ結構好きなんです。こんなの他にはないって強烈に印象に残っていたので。(やはり鏡花は血肉になっていると)そうかもしれませんね。特に意識してそうなったというよりは、結果としてそうなったかなあ。体言止め多いなあとか思いながら。

――鏡花以前はどうですか?

 子どもの頃は……「ナルニア国物語」から始めると話が長くなりますが、最近文庫(光文社古典新訳文庫)の解説を書いたばかりで。小学生の頃のトラウマ本です。大ショックでした、「最後の戦い」。半世紀ぐらいあれについてずっと言いたかったので、文庫解説の依頼が来たときは嬉しくて(笑)。でも書こうと思うと難しいんですよね。どなたか相応しい方の解説を読ませていただきたいとずっと思ってたファンなので、私なんかが書いていいんだろうかと。ファンタジーの素地はそのあたりからですね。

SFコンテストからデビューへ

――SFとの出会いは?

 高校生の時に文芸部の先輩でSFファンの人がいて、どんどん貸してくれて読んでたんですけど、別段SFだけ読んでたわけじゃなくて、ミステリ好きの人とか、時代小説が大好きな人にも貸してもらって、授業中に膝の上で読んで。当時は乱読だったから。でも、私本人は倉橋由美子に目の中まで真っ赤になるくらいかぶれてて、倉橋由美子の布教活動にいそしんでました。

――SFコンテストに投稿されたきっかけは?

 「SFマガジン」も貸してもらって読んでいたので、非常にまれにSFコンテストの募集というものがあるけれど、それは何年に一度くらいしかない、珍しい貴重な機会であるということは知っていたんですよね。大学に入って京都に行って、久しぶりに書店でSFマガジンを手に取ってみたら、ちょうど募集をやってたんです。しかも締め切りが4月末。ああ、これは私が応募してもいいんじゃないかな、とその時思っちゃったんですよね、ついつい(笑)。タイミングが合ってしまったので。空想的な小説を書くっていうのは昔から変わってないので、SFとの親和性はたいへんあると思うんです。

――コンテストの最終選考に残り、その後掲載された「仮面舞踏会」が初投稿作ですか?

 はい、生まれて初めて書いた小説です。(文芸部時代に)詩のようなものは書いてましたけれど。

――大学時代に暮らした京都からの影響は?

 岡山の田舎から京都に出て行った人間としては、書店に置いてある本が全然違うという状況があったので、京都で何もかも出会ったみたいな。若い頃の作品は、架空の世界にも京都という街の影が差しているところがあるのかもしれない。でも京都のイメージは若い頃で完結してしまったので、いまはもう縁が切れてる感じですね。影響はだいぶ薄れてしまって。

――作家・山尾悠子をかたちづくったものは?

自称・澁澤チルドレンと。澁澤龍彦から何もかも教わったっていうのがすごく大きかったです。大学に入って『澁澤龍彦集成』にぶつかって、世界の終わり、天使、両性具有……。何この世界、と。もう何もかも澁澤経由で、小説であるとか幻想美術であるとか、何もかも教わったみたいなのが、とても大きかったので。

 色んなものにかぶれましたね、あの頃は(笑)。塚本邦雄も、本を買うために食事を抜いて、ぱたぱた倒れながら高い高い本を。京都の書店にしかなかったんですよね、塚本邦雄の本なんて当時。あの頃はものすごい勢いで新刊がどんどん出てたんです。毎月毎月、月刊みたいに。1冊平均、当時3500円ぐらいの。貧乏学生には……。だからもう、本屋に行くと熱が出そうでした。書店に入る時点で胸がどきどきしてるんですよね、新刊が出てるかもって(笑)。だって毎月出てたから。

――具体的にはどの書店ですか?
 京都書院。河原町店とイシズミ店の両方あった頃です。

就職、育児、そして十数年間の休筆。

――大学卒業後は山陽放送に入社します。どのような仕事を?

 テレビの制作部の中の美術というところにいて、当時はテロップを打ったりしてました。1977年に卒業して就職して、2年ちょいなので79年ぐらいかな。(作家との兼業は)やはりきつかったんですね。昼は会社勤めで時間取られて、(執筆は)夜だけっていうのは。中途半端なことするぐらいだったら、もういっそ、と思って。だから退職した直後は書き下ろしで長編を出したり、一時期だけ割と集中して一生懸命仕事してましたけど。

――休筆前の最後の作品は1985年の「天使論」ですか?

 ほとんどラストに近いですよね、あれね。子どもが生まれてもしばらくはぽつ、ぽつとは書いてたんですけど、2人目が生まれた後、完全にそれどころではなくなって。その頃から東京の方からもまったく声がかからなくなったので。後で聞いたら、山尾は家庭に入って廃業したので連絡はするなって言われてたらしいんですけどね(笑)。

――復帰作は「アンヌンツィアツィオーネ」ですね。

 ええ。1999年ですね。

――休筆は十数年間に及びました。

 自分では雑誌発表しただけで単行本になってないものがずいぶんあったものですから、それがどうにも心残りで。このままどこからも声がかからないんだったら、自費出版のかたちででも本にしてまとめておかなければだめかしら、と内心で思ったりしていたんですけれど。

「ネットであなたの話をしている人はいますよ」

――声がかかれば動き出せていた?

 ええ、割と消極的な人間なので(笑)。声をかけていただけたのが、とにかくきっかけになりましたね。声がかからないとお呼びじゃないんだろうと思っていたし、私のことなんかもう誰も覚えてないだろうと思ってたんです。当時、「そんなことはないですよ、インターネットを見てみなさい、あなたの話をしてる人はいますよ」と教えてもらって。見たら本当にまだ忘れずに私の昔の作品を、古書店で雑誌のバックナンバーを掘り返したり、探して読んで下さってる方もいて、すごくうれしかったです。40年前にはインターネットってなかったので、創作を発表してもあんまり手応えがなかったんです。人気のある作家の方ってファンレターがいっぱい来るものらしいんですけど、私の場合は全然来なかったんですよね(笑)。本当に来なかったです。昔もらったファンレターの数が、合計して20通ぐらい。いまでも本を出すとき、読者カードって中に挟んだりするじゃないですか、あれなら返ってくるんじゃないかって編集さんが入れて下さったら、これもまた全然戻ってこなかった(笑)。あまりにも読者カードが返ってこないので、担当さんも驚いて、以来入れるのをやめてしまったという……。とにかく若い頃は反応がほとんどなくって、一部の読者の人は熱心に好んで下さるっていうのはあったんですけれどね。でもその手応えも途中からだんだんなくなってきて。誰か読んでいるんだろうかと、不安になることもありました。だからインターネットで手応えを確かめられたのが割と大きかったですね。少数派だろうけど、こういうものを好んでくれる人ってやっぱりいるんだわってわかったので。

――インターネットを促したのはどなたですか?

 (作家の)野阿梓さんが。私は日本SF作家クラブに一応在籍していて、それをきちんと辞めると連絡をしないままだったんですけど、野阿さんが電話して下さったんですよね。「どうされてるんですか?」って。「ネットを見てご覧なさい」って教えてもらったんです。

――幻想小説家としての自覚はどのあたりから?

 『山尾悠子作品集成』(2000年、国書刊行会)は幻想小説系の編集さんがお世話して下さってまとまったものですから、もうその頃には自分は幻想小説系の人間だという認識になっていました。その前に「季刊幻想文学」という、東雅夫さんが編集長をなさっていた雑誌で私の小特集をして下さったのが復帰のきっかけで、その時からSF作家ではなくて幻想小説系の書き手だという紹介になっていました。そういえば初期の活動の最後の頃にはもう、「幻想文学」誌のインタビューは受けていましたね。
SFの場所にいたんですけれど、サイエンスフィクションを書いていない人間としては当時たいへん居心地が悪かったんですね。SFではないなら何なんだって言われて、当時はファンタジーなのかなと思ったりしていたのですけれど、ファンタジーと言われても私は「指輪物語」とか「ゲド戦記」とか、あっちの方はあんまりピンとこない人間なので、ファンタジーという肩書でもしっくりこないものがあったものですから。「季刊幻想文学」が創刊されて、幻想小説という肩書というかレッテルなら私はいられるかも、と。(「幻想文学」の存在は)結構大きかったですね。

幻想というジャンルが山尾悠子を発見した

――逆に言えば、それまでは何を書いていると思っていたのですか?

 SFではないからファンタジーかなあ?と首をかしげながら(笑)。私にとって幻想小説とは何かと言われると、私は確かに空想的な小説を書く人間ではあるんですけれど、あえて肩書をつけるならSFではないし、純文学でもないという意味で、幻想小説と言っている面がすごく大きいですね。消去法みたいな。幻想とは何かって言われると、私にとってはすごく曖昧な、あまり実体のない世界にそこはかとなく生息しているような気分でいるんですけれど。

――むしろ幻想小説というジャンルが山尾悠子を発見したわけですね。

 私なんかはこの歳になってもまだ声をかけていただけるっていうのは、ちゃんと時代に間に合ったわけで、それは幸せだと思います。40年前にはちょっと居場所がなくて困ってしまって消えてしまったようなところもあるんですけれど。

――SFから世に出たことをいまどう振り返りますか?

 創作のきっかけになった具体的な力はSFに関わったことにありますので、たいへん恩義があるわけですし、40年前に私のような者が創作を発表できる場所って、本当にSFの場所しかなかったので、それはたいへん大きなことだったと思います。書いてるものがたまたまサイエンスフィクションではなかったということが、相互の円滑な関わりを妨げていた要因ではあったんですけれど(笑)。

女には空想力がないと思われていた

――女性の書き手の活躍について改めておうかがいします。

 最初に(状況が変わったと)感じたのは長野まゆみさんが出ていらっしゃった時ですけれどね。その後はもう、いちいちお名前をあげきれないほど大勢、女性の作家が空想的な作風で活躍なさってるでしょう。

昔は女にはそういう空想力はないって言われてたんですよね。女は台所にいて、半径何百メートルの世界にしか目がいかないと。何だったんでしょうね。

 私以前にもそういう傾向のある女性たちは大勢、世に出られないまま埋もれていったんだろうなと思ったり。尾崎翠さんのような方がね。若い頃に活動されて、うんと歳を取ってから時代が作風に追いついて再評価された途端に、もうお歳を召して亡くなられたでしょう。ああいう女性たちが世の中にどれほどいらっしゃったんだろうと。私なんかは本当に幸せですよ。時代の流れにうまく合うかどうかっていうのは運次第みたいなところがあるんでしょうね。いま自分が20歳だったらどうしてるかなとかね、ちょっと思ったりしますけど(笑)。それは贅沢なので。60過ぎてもこんなふうに声をかけていただいて、ぽつりぽつりとでも発表ができて、本当に運の良いことだと思ってます。

――岡山県都窪郡早島町のご自宅はどのようなところですか。

 岡山市と倉敷市の隙間に挟まっている小さい町なんですよね。山と大きな池に面していて眺めがいいんです。(執筆は)自分の狭い部屋で、パソコンで。『山尾悠子作品集成』が出た時に、必要なのでパソコンは絶対覚えて下さいって国書の編集長に言われたので(笑)。(執筆スタイルは)やってないときは何年でも何もしてないし、やってるときは毎日朝から晩までずうっとやってるし。書いてる時は集中して、パソコンの前で居眠りしながら書いてます(笑)。一生懸命やってる時は集中してやってますね。

――書くモードはどのようにしてやってくるんですか?

 必要にかられて(笑)。いまね、わけあって何が何でも年内に次の書き下ろしを国書刊行会から出さないといけないんですよ。もう、必要に迫られてる(笑)。

まさかの書き下ろし作品、年内にも

――じゃあ年内にもう1冊?

 はい、出ます。もう絶対にこれは。もしかしたら何冊か出るかも。書き下ろしの本と、どさくさに紛れて復刊を1冊。『仮面物語』っていうのを出して復刊してないんですけど、それをちょっといじくって。書き足すんじゃなくて削って出すんですけれど(笑)。今年はもしかして数冊出る年かも、どうしましょう、みたいな。国書刊行会の書き下ろしは趣味全開の甘ったるい中編小説になってます。いま必死になって。いままでだいたい先行きも決めずに手探りで最初からうだうだ書いて、途中でわかんなくなってばったりと中断するみたいなことをやって、すごく時間がかかってたんですけど、今回はとにかくストーリーを最後まで決めといて、どこがどうなるっていうのをいま一生懸命組み立ててやってますので、とにかく死んでも仕上げると思います。早くタイトル決めなくては。

――推敲にはどのくらいの時間をかけますか?

 うだうだうだうだうだうだうだうだ、いつまで経っても直してます(笑)。きりがないからやめとこうとは思うんですけどね。パソコンの中に原稿がある限り、ずうっといつまででも直し続けたくなっちゃうので。若い頃は手書きだったから、よく(原稿用紙を)切り貼りしてましたね。はさみで切ってセロテープでぺたって。

――余談ですが、山尾さんには好みの漢字があるのでは?「犇(ひし)めく」とか。

ああ、初期の頃からですね。これは癖になっているからやめなさい、とか自分でも(笑)。でもあんまり漢字表記にはこだわってないですね。そんな細かいこと言ってる場合じゃないので、さっさと書きなさいみたいな。(パソコンの)辞書登録とかも全然やってないです。