小説も書店も「独自性」で輝く
日本全国で書店数の減少が続いているという。少し前の記事になるが、二〇一七年八月二四日付の本紙朝刊(東京本社発行の最終版)では、「書店ゼロの街 2割超」という見出しを掲げ、全国の二割強に当たる四二〇の自治体・行政区が、地域に書店が一店舗もない「書店ゼロ自治体」になっているとした上で、この事態を「『文化拠点の衰退』と危惧する声も強い」と報じている。
恐らく死ぬまで紙の本を読み続けるであろう世代の一人として、個人的には、成る丈多くの書店に存続して欲しいと願ってはいるがしかし、冷静に、客観的にこの状況を分析してみるならば、かつては少ないながらも海外小説や文庫の古典が並べられていた売り場を、売上ランキング上位の小説とダイエット本と付録付き女性誌に明け渡してしまった結果、街の書店の地位はコンビニとネット通販と情報サイトに取って代わられた、というのが本当の所なのではないか? つまり「文化拠点」が衰退しているのではなく、「文化拠点」である事を自ら放棄した必然として、書店は減少の一途を辿(たど)っているように見えて仕方がない。
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安部公房にその才能を見出(みいだ)されたものの、極端に寡作な上に、十年以上に亘(わた)る休筆期間も経た後、熱心な読者からの要望に応える形で近年再び作品を発表するようになったという、その経歴からしてどこか作中の挿話めいてもいる、山尾悠子の新刊『飛ぶ孔雀(くじゃく)』(文芸春秋)に収められた「不燃性について」を読んで、驚嘆した。一人の男が仕事帰りに立ち寄った地下公営浴場で、路面電車の女運転士と出会う、男は彼女から「あたしの電車を外に停(と)めていますから、帰りは乗っていくといい」と誘われるのだが、帰途に就く前に二人は、硫黄臭漂う地下深くにある売店を訪れる、そこでは茹(ゆ)でた卵が売られている……という冒頭だけでも十分に奇妙な小説である事は分かるのだが、この小説の本当の凄(すご)さは、幻想小説や奇譚(きたん)といった枠に収まり切らない、運動性豊かな文体にあるように思う。「底の知れない温水は相変わらず目を惑わすひかりの紋様でいっぱいで、そしてかなりの低音で喋(しゃべ)る目のまえの相手が年上なのか年下なのか、Kは今ひとつ確信が持てないままでいた」。この文章の前半部分では、浴場の揺らめく温水を描写していながら、「そして」という接続詞で繫(つな)いだ後半部分では、前半とは全く異なる、目の前で話す女運転士の年齢不詳さについて語っている、この段差、跳躍が凄(すさ)まじい。この作品はこうした段差もしくは転調の連続なのだ。会話部分もほとんど応答になっていない、にも拘(かか)わらず、小説は澱(よど)みなく進む。この作者が、前回本欄で述べた「語の選択と配置」に極めて意識的な書き手である事は疑いようがない。小説は後半、大きな災厄をもたらしそうな、地中深くに蠢(うごめ)く大蛇の存在を仄(ほの)めかしもするのだが、カタルシスに回収されることなく、驚くべき地点に着地する。
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「ポルトガル語のジェイムス・ジョイス」とも呼ばれる程の存在でありながら、日本での翻訳は極めて少ないブラジル人作家、J・G・ホーザの短篇(たんぺん)集『最初の物語』(高橋都彦訳、水声社)も、言葉の力を駆使することで独自の小説世界を構築している。この中で描かれている、少年が森で出会う「皇帝のように彼に賞賛されようと背を見せた」七面鳥や、幼年時代に訪れた大邸宅の家具の「赤い木材の高級な材質の(中略)二度とない匂い」は、回想された本当の記憶ではない。言葉によって精緻(せいち)に作り直された、現実の過去とは異なる小説的記憶なのだ。
今回紹介した二冊に興味を持った読者が近所の書店を訪れたとしても、その棚に目当ての本を見つける事は難しいかもしれない。しかしだからこそ、こうした需要の取り込みに特化する事が書店間の差別化に有効なようにも思う。実際米国ではここ数年、独自の品揃(しなぞろ)えで地域の本読みから支持を得ている、独立系書店が復調傾向にあるという話も聞く。=朝日新聞2018年6月27日掲載