沖縄と本土、容認派と反対派――。米軍基地をめぐって私たちの間に、時にうっすらと、時にはっきりと引かれる線がある。6月17日、那覇市内で開かれたパネルディスカッション「分断をどう越えるか 沖縄と短歌」(現代短歌社主催)では、沖縄の歌人らが、そうした「線引き」とどう向きあうか語り合った。
基調講演は、「塔短歌会」(京都)主宰の吉川宏志さん。その中で、夫の出身地である沖縄に移住した歌人の1首を紹介した。
《痛みを分かち合ひたし合へず合へざれば錫(すず)色の月浮かぶ沖縄 佐藤モニカ》
吉川さんは「『痛みが分かる』と言える立場ではないが、分かち合いたい。何ができるか、どう生きればという問いがある歌」と評価。俳句と比べて字数の多い短歌を「迷う詩型」と表現し、「沖縄と米軍基地も、こうだとは言い切れない。迷う部分をどう引き受けて表現するかが大事ではないか」。
続くパネルディスカッションでは吉川さんを司会に、歌人の名嘉真(なかま)恵美子さんと屋良(やら)健一郎さん、俳人で文芸評論家の平敷武蕉(へしきぶしょう)さんの沖縄在住3氏が登壇した。
《墜落のニュースをききて今日もまた狂わんほどに空ばかり見る 玉城寛子》
名嘉真さんが秀歌として挙げたのは、2016年12月、名護市沿岸に「不時着」したとされるオスプレイ大破事故など、相次ぐ米軍機の事故を思わせる1首。「『狂わんほどに』という言葉は体の内から発していて、類型的とは思わない」
名嘉真さんが「類型的ではない」とわざわざ断った背景には、この数年、沖縄の歌人の間で、米軍基地を詠む歌が「類型的で、標語やスローガンになってはいないか」と繰り返し議論されてきたことがある。
議論のきっかけは、歌人の故小高賢さんが13年、「短歌往来」誌に寄せた論考だった。
〈作品を生み出す「個」が取り囲んでいる「沖縄」に溶け込んでしまっている読後感を否定できない……沖縄というバックグランドは、それほどインパクトがある(ありすぎる)〉
《差別知らぬ若者たちはヘイトさえ「土人(つちんちゅ)」と読み笑い飛ばしぬ 伊波瞳》
平敷さんが引用したのは、16年10月、同県東村の米軍ヘリパッド移設工事現場で抗議する市民に、大阪府警の機動隊員が「ぼけ、土人が」と発言した問題をめぐる1首。差別発言を扱いながらもにじむユーモアに「こういう歌に、差別を越えていくものがあるのかも」。
続けて平敷さんは「(米軍基地をめぐる分断とは)本土の人々が当事者性を持たず、傍観していること」と指摘。「分断を乗り越えるには、沖縄の歴史を直視するしかない。怒りを持って基地の矛盾を歌い続けなければならず、そこに類型的という批判はあたらない」
想像力かき立ててこそ届く思いも
一方、屋良さんは沖縄の歌人の歌集について、本土の歌人が「沖縄の人からの問責」によって「批評を閉ざされたような感じがする」と述べた事例を紹介。「沖縄県内と県外、お互いに分かってもらえないと思えば、分断が生まれてしまう」と話しながら、1首挙げた。
《島ことば天蛇(てんばう)は「虹」基地からめ軍用機搦(から)め水無月の空 比嘉美智子》
天にかかる虹が蛇と化し、基地や軍用機を搦め取る壮大なイメージ。「『基地をつぶして』とはっきり言わず、読者の想像力をかき立てる。こういう歌なら批評が生まれ、同時に沖縄の人々の基地に対する思いも本土に届くのではないか」
屋良さんは、想像力を刺激する歌として、もう1首挙げる。
《爆音を見上げなくなり会話止め表情変えず話し始める 當銘さゆり》
吉川さんは「ひとくくりにできない沖縄の短歌」を理解するには、読み手にも沖縄の歴史と文化の知識が求められると指摘。「沖縄の歌の内面にどこまで入っていけるか、読み手も問われている」(上原佳久)=朝日新聞2018年7月4日掲載