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ため息もれる出会いの衝撃 本居宣長「紫文要領」

もとおり・のりなが(1730~1801)。国学者。

大澤真幸が読む

 本居宣長が数えで三十四歳のときに書いた源氏物語論『紫文要領』は、宣長の最も重要な概念「物のあわれ」について論じている。源氏物語の主題は物のあわれを知ることにある、と。
 物のあわれとは、物との出会いにおいて心が動くということである。満開の桜を見て、「ああ美しいなあ」と感動する。「ああ」という嘆息が「あわれ」の語源だ。宣長によれば、嘆息が、他人も復唱し反復することができる言語表現になったものが和歌である。和歌の日本語は、人と物との最初の出会いの衝撃を純粋に保存している、ということになる。それに対して、物語は物のあわれの内容を叙述する。人は、物に触れて強く心を動かされると、それを他人に聞いてほしくなる。そうした思いに駆られた者が物語を書く。源氏物語は物語の白眉(はくび)である。
 多くの物語が恋や好色を中心に展開するのは、恋・好色においてとりわけ心が大きく動くからである。不義密通のような世間が許さぬ恋であれば、あわれの程度はさらに深い。
 『紫文要領』をその総論部分に組み込んだ、晩年の『源氏物語玉の小櫛』で、宣長はさらなる逆説を示唆している。一般に物に触れることで心は動かされるのだが、あわれが最も深くなるのは、触れようとしているそれに触れ損なったとき、触れることが不可能になったとき、触れようとしていた物が喪(うしな)われたときだ、と。源氏が愛した女性の多くが、出家か死によって彼から去っていく。女性たちとの出会いのあわれは、喪失の体験において極点に達する。
 宣長はまず、和歌や物語といった文芸を、勧善懲悪のような教誡(きょうかい)を目的とする書物から独立のジャンルとして確保した。その上で後年『古事記』を読むことを通じて、物のあわれを教誡的な書物の守備範囲にまで拡張した。物のあわれの中に、公的秩序をもたらす政治的なポテンシャルがある、と。よき政治の原点に、「真心」が、物に触れて深く動かされる心がある、という点が重要である。=朝日新聞2018年7月21日掲載