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認知症、共に生きる 語り合い、希望を持ち、備える

行方不明者を捜す訓練

 線路に入ってしまった認知症の男性が列車にひかれ死亡した事故をめぐり、最高裁が先月、注目の判決を下した。遺族に損害賠償を求めたJR東海の訴えを認めず「遺族に賠償責任はない」としたのだ。
 「もし自分の家族が事故で命を落とし、損害賠償まで請求されたらどうしよう」と、裁判の成り行きを見守っていた人も多い。民法の条文の金縛りを解き放ち、認知症の本人と家族の現実に光をあて、超高齢社会への活路を開いた勇気ある判決だ。
 一方、事故の責任や損害を誰が負うのか、大きな宿題が残された。また、本人は事故を起こした加害者ではなく、本人こそ被害者ではないか、という根本的な疑問も残る。
 今回の判決を機に、対立にエネルギーを費やすのではなく、認知症の人も周りも、安心・調和して過ごせる社会をどう一緒に創っていけるかを考え、その点にこそ注力していく出発点にすべきではないだろうか。

公的対策が必要

 認知症の人の行方不明や事故は日常茶飯の出来事だ。その実態に迫ったのが『認知症・行方不明者1万人の衝撃』だ。NHK取材チームによる地道な取材と調査を集大成した渾身(こんしん)の一冊だ。認知症の人は意味もなくさまよっているのではなく、散歩などに出かけた先で家に戻れなくなったり、事故に遭遇してしまったりする現実があぶりだされている。
 深刻な事態が何十年も続いているのに「行方不明の実態を正確に把握し、再発防止に取り組む公的機関がどこにもない」と本書が鋭く指摘した状況は、今も変わっていない。
 公的対策の必要性を提起しつつ、問題の本質は「一人一人が、街の片隅で命を落とし、あるいは絶望とともに涙に暮れる人々に目を向けてこなかったからだ」と自戒をこめて記している。その通りだと思う。
 本書には、対策に真剣に取り組む各地の実例や家庭でできることもわかりやすく紹介されている。絶望を希望にかえる手がかりは、身近な地域や一人ひとりの日々の暮らしの中にある。

偏見はらす一歩

 認知症になると何もわからなくなり、時には危険な存在とすらみなされてきたが、大きな偏見だ。この偏見が解消されない限り、私たち自身が歩む老い先は冷たく厳しい日々になる。
 こうした偏見を一気に晴らしてくれる一冊が『私は私になっていく』だ。著者は、オーストラリアの元政府高官。認知症との診断後の絶望の淵(ふち)から抜け出した彼女は言う。「認知症は多くの点で、本人とその家族がスティグマ(負の印)のために孤立してしまうという社会の病気だ」と。彼女はそういう偏見を自らなくしていくために、勇気をもって外にでていく挑戦を始める。新たな出会いを通じ、自らの内に豊かに宿る感性や力が次々と開かれていく。この一冊と出会えたことで、世界中でどれほど多くの人が自分を信じなおし、前を向いて進む勇気と希望をえられたことか。日本でも著者は大きな影響を及ぼし、認知症と共によりよく生きる新たな動きが生まれている。
 認知症はもはや絶望の病ではない。発症から最期まで平均10年以上に及ぶ長い期間は、自分の人生終盤のかけがえのない日々だ。戸外に出て四季折々を楽しみ、人とつながり、働き、希望を持って生きる人たちが各地で増えている。『旅のことば』は、そんな新しい生き方のガイドとなるユニークな一冊だ。すべての世代の人たちの道標になる。この本をもとに、暮らしの中での(ささやかな)希望を見つめなおし、語り合い、老いに楽しく備えていく動きが広がると、遠回りのようで、行方不明や事故がなくなる社会にたどりつく一番の近道になると思う。=朝日新聞2016年4月17日掲載