人類史上、最高の冒険とは何だろう? スポーツとちがって冒険には計測する尺度がないので、これは無意味な問いかもしれない。だがあえて個人的見解を言えば、1893~96年のフリッチョフ・ナンセンによるフラム号漂流がそれだったのだと思う。『極北 フラム号北極漂流記』(加納一郎訳、中公文庫BIBLIO・品切れ)を読むと、船で北極海を漂流したナンセンは途中で下船し、北極点をめざして犬橇(いぬぞり)で北上を開始する。当時の最北到達記録をぬりかえたあとは一転して陸地をめざし、最後はシロクマを食べて越冬して生還を果たすのだ。
何年も北極の海をふらふらして、はっきり言って無茶苦茶(むちゃくちゃ)である。しかしだからこそ冒険ともいえるわけで、最近ではこの手の無茶な冒険が本当に難しくなったと、つくづく思う。
そもそも冒険とは何なのか。私は仕事柄そのことをよく考えるのだが、ヒントは意外にもジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』のような神話学の本で見つかったりする。キャンベルによると世界各地の神話や民話は、共同体を離れた流浪者が自己の内部を探求して存在の根源を発見する点で物語構造が共通しているという。この流浪者の行動こそ、人類が古来有してきた普遍的な行動様式=冒険であり、そのポイントは共同体の外に飛びだすことにある。
空白消えた地図
現代において冒険が難しいのは共同体から離脱すること自体が難しいからかもしれない。ナンセンの時代のように地図の空白部は存在しないし、テクノロジーの発展で北極やヒマラヤでもGPSや衛星電話でいつのまにか社会とつながってしまっている。つまり昔の共同体は世界的システムとなって膨張しており、もはやナンセンと同じノリでどこかに到達することをめざしても、システムの網の目にとりこまれてなかなか外側に出られないのである。
どうやって人間界のシステムから飛びだすか。それが現代の冒険の課題といってもいい。その点で革新的だったのが、あの有名な『コン・ティキ号探検記』だ。著者ヘイエルダールは古代ポリネシア人の太平洋拡散についての自説を実証するため自分で筏(いかだ)をくみたて太平洋を横断するのだが、彼がめざしたのはじつは太平洋という地理的空間ではなく、むしろ古代ポリネシア人が見た世界に入りこむことだった。すなわち地理的にどこかに到達するという近代的探検とは別の視点を彼は冒険行為につけくわえたわけだ。
彼の行為はわれわれの知らない位相に入りこむ冒険ともいえる。同じ観点で突出しているのがショーン・エリスとペニー・ジューノの『狼(おおかみ)の群れと暮らした男』(小牟田康彦訳、築地書館・2592円)である。ロッキー山脈のオオカミの群れに接近して、手荒い洗礼をあびながらもうけいれられた英国人の、ナンセン級に無茶苦茶な実話だ。完全に人間界のシステムを飛びだしてオオカミ界に潜りこんでおり、凄(すさ)まじいのひと言につきる。
常識をブチ壊す
別位相に潜りこむという意味では服部文祥『狩猟サバイバル』も近いものがある。テクノロジーを排して釣りや狩りで自給自足的に、つまり可能なかぎり自力で山頂をめざす彼の行為は、登頂すればいいという従来の登山観にたいする完全な挑発になっている。視点と手法を変えるだけで、それほど難しくない奥秩父の山が、とんでもなく困難なフロンティアに変貌(へんぼう)するのだから面白い。
これら現代の冒険は従来の常識をブチ壊して新しい可能性の扉を切り拓(ひら)いた革新的行為である。現代では同じ場所に留(とど)まっても冒険にはなりえない。新しい地図を自ら作りださなければならない時代になっている。=朝日新聞2016年7月17日掲載