はらださんは兵庫県の、古典の舞台にもなった海辺の町出身。江戸時代末期から続くせんべい屋さんの六代目の父、ゴリゴリのフェミニストの母のもとで育った。中高は六年間女子校。大学は芸大で男女の関係ない世界。「女性」ということで不利益を被ることとは無縁の世界だった。それが、社会に出てから一変した。
「最初に入った会社で、ふだん信頼している仕事仲間が突然“帰って早く彼氏のごはん作らないと”みたいな女性差別的なことを言っちゃうとか、信頼していたお客さんに“ホテル行こうよ”とセクハラ的なことを言われたことがあったんです。それで、昔の生きづらい状況に置かれていた女の子たちの話を、今の感覚で聞いたらどうかなと調べ始めたら、こういうことって前にあったなとか、友達もこんなこと言っていたなっていうことが多くて。物語が書かれてから何千年も経っていたり、何百年も経っているけどあまり変わってないのでは?と思ったんです」
浦島太郎の乙姫、七夕伝説の織姫などおなじみの物語や道成寺の清姫のような歌舞伎や文楽で有名な演目から、あまり知られていない民話や古典文学まで。何千年にも何百年にもわたって伝えられるうちに、鑑賞や分析の対象として一種の型となった物語の中の女性たちが、はらださんの手にかかれば、生き生きと動き出す。はらださんは、「一人の人間」として女の子たちを描くことで、物語に時代とか経験によって付加されてしまった役割とか意味をとっぱらっている。
「その時代にがんじがらめになってそうするしかないって思っているルールがたくさんあるんですよ。でもそれって時代によって変わっていくし、本当は不確かなものだから、気にしないでいい。物語の女の子たちが、楽しく好きなように暮らしたらいいな、そういうふうに生きていけたらいいな。読んだ人もそういう気持ちになってくれたらいいなって思って書きました」
本を彩るイラストもはらださんの手によるものだ。無愛想だったり、怒っていたり、その表情や仕草はわたしたちの「こうあってほしい」というイメージとはズレている。「女の人のイラストって、ニコニコしなさいってありますよね。そういうものに反発もあって、不用意にニコニコさせないで、ほんとに楽しいときだけニコニコさせています」
ところで、タイトルにも使われている「ヤバい」には二つの意味がある。オシャレもかっこいいもダサいも全部「あいつヤバいよね〜」でまとめられてしまう。じゃあ、「ヤバい女の子」はどっちだろう?
「いろいろな意味を持たせたいなと思っています。周りの人が勝手に“あいつは今の価値観に照らし合わせると、そこから逸脱しているからヤバい”って言っている場合もあるし、“決まっているレギュレーションから逸脱して何者にもとらわれない”という意味もある。“ヤバいならヤバいでも何も問題ない。ヤバいまま生きていきましょう”っていう意味を込めています」
今は2018年。女性に参政権が認められたのが1945年、男女雇用機会均等法ができたのが1985年、男女共同参画社会基本法ができたのが1999年。男女差別なんて昔のことだと思っていた。でも、近頃それが勘違いだったと思わされるような事件が続出している。こういうときにどう考えたらいいのだろう。
「今起きていることには原因や理由があってそうなっていることが多いから、なるべくプリミティブな状態を見てから考えていけたらと思います。三重県の山奥にオコゼ(魚の一種)を笑う謎の奇祭があるんですよ。その祭りの由来は、山の神様がすごいブスやから、自分よりブスなオコゼを見たら機嫌を直して豊作になるっていう謎のロジックなんです。祭をしている人たちは普通のおじさんで、たぶんいい人たちなんですよ。ただ、今まで地層として積み重なってきた習慣とかアティチュードとかでそうしているだけで。だから、それを乗り越えるようなことをしたいなって」
鬼になるくらいの怒りと、どうしてこんなふうになっているのか考えること。感情と思考のどちらも手放さず、世界を変える方法をなんとか模索することが大事だと、はらださんの本はヒントをくれる。はらださんが想像するのはこんな世界だ。
「10年後にこの本を読んで、ださい感じになっていたらいいなって思ってるんです。“10年前ってまだこんなこと言ってたん? 『うわっ、きつっ』”みたいな感じに」。ほんとうにこんな世の中が来たらいいと思う。
「ホテル行こうよ」「帰って早く彼氏のごはん作らないと」「結婚は? 子どもは?」「若い女の子って仕事取れていいよね」
職場で、学校で、家庭で、隣近所で、そういう言葉やふるまいにふれるたび、軽いことだと思って慣れるようにしてきた。だけど、やっぱり嫌だ! 怒りたい! でも、怒るのってしんどいし、その前に心が折れてくじけそうになる。
そんなとき、この本を開いてみる。すると、遠い時空の果てから、「わたしたちがいるよ」「わたしもそうだったよ」と「ヤバい女の子」たちがエールをくれる。その声に力をもらいながら、わたしたちは自分たちのヤバい物語を生きるのだ。