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さあ神を選びたまえ 米澤穂信さんが出会ったウェーバー「職業としての学問」

 マックス・ウェーバーは著名な社会学者で、彼が一九一九年にミュンヘンで行った講演を書き起こしたものがこの『職業としての学問』です。彼はまず、学問には幸運が必要だと語ります。一つは、安定した職を得られ、順調に昇進することが出来るかという幸運。そしてもう一つは、霊感が得られるかどうかという幸運です。

 ここでいう霊感というのは、原文はドイツ語ですから違う単語を用いていたでしょうが、要するにインスピレーション、閃きのことです。閃きこそが決定的なのであり、それは漫然と機械的に手元の作業をこなしているだけでは得られない。全身全霊を傾け、脇目もふらず、門外漢にはそれがどうしたと思えるような小さな問題を「これが数千年未解決の難題だ」とのめりこみ……それでようやく、閃きを得られるかどうかの抽選が始まるのです。学問とはこの点で運に支配されている、とウェーバーは語ります。そして、それは学問の世界だけに留まらない。商人であっても技術者であっても(たぶん小説家であっても)肝心なのは閃きであり、それは手元の仕事を投げ打って「閃きを得よう!」と座り込んでいても得られるものではなく、また同時に、機械的に仕事を右から左へと処理しているだけで得られるものでもないのです。

 さて、とウェーバーは言います。学問上の(そして商業上の、技術上の、芸術上の、その他すべての)閃きが誰にでも与えられるかというと、そうではない。どれだけ必死に取り組んでも、最後の閃きが得られなければ仕事は有意義なものにはならない……この残酷な宿命から目を背けた人々が、「個性」と「体験」をもてはやしている。「誰もが認める学識を備えた大学者であっても、不運にも閃きが訪れなければ生涯凡庸なままである」と考えるのは、ゴールがあるのかどうかもわからない旅路を行くようなもので、これはつらい。だったら「世の中には個性的な人々がいて、彼らは凡庸ではない(そして俺は個性的だ)」と考えた方が気が楽だ。そして、多くの人々が自分は天才であることを証明しようと、どうだこんなことは誰も言っていないだろう、こんなことを体験したのは俺だけだろうと胸を張っている(念のためですが、これは一九一九年のドイツの話です)。

 ウェーバーは、こうした個性を求める人々には間違いなく、なんの個性もないのだと語ります。ゲーテが偉大であったのは作品製作に打ち込んだからであり、彼の生活や言動が奇矯であったからではない。たとえゲーテであっても、俺は個性的だろう、面白いだろうということをそのまま作品にすれば、ただ名を落とすだけである、と。

 私が読むところ、かつては、いまほど宿命に向き合う必要がなかったとウェーバーは言っています。昔の世界は単純で、雨が降らないのは祈りが足りないから、不作だったのは呪われたからだった。その世界では、(ドイツでは)キリスト教的価値観を受け入れれば心の平安を得られたのです。しかし人類は学問を進め、この世の仕組みを解き明かそうとし始めた。世界を覆っていた魔法は解けてしまい、いまや自分で自分の神を選ばなくてはならなくなった、これが時代の宿命である……これは宗教的な話ではないですよ、もっと実際的な話です。そうですね、たとえば「野球を上手くするためにシゴキは必要だ」という立場があり、「科学的練習こそが野球を上達させる」という立場があるとしましょう。ある程度までは両天秤をかけることができても、究極的にはどちらかの立場を選ぶしかなく、それは必然、もう一方の立場には侮辱を与えることになる、ということです。この、人生のあらゆる局面で自分の立場を自分で決めなければならないというのが現代の宿命だというのです。

 様々な選択肢を一つ一つ検討していき、ようやく「私はつぶあんが好きで朝はパンを食べ、洋画は吹き替え派で目玉焼きにはケチャップをかけます」と言ったとたんに異論が群れをなして押し寄せるのが現代であるとするならば、たしかに「汝、こしあんを愛し朝は白米を食べ、洋画は字幕で見て目玉焼きには塩をかけよ。それが神の意志であり、逆らう者は異端である」と決めつけられた方が楽に思える瞬間が訪れるのも、わからなくはない。そして選択は、こしあんかつぶあんかよりももっと深刻な問題についても、自分で行わなくてはならない……。

 個性と体験が求められるのは、実は、このしんどさから逃れようとする弱さのためだとウェーバーは喝破します。個性と体験に固執する人々は、やがてより特別な体験を約束する者、つまり新たなる預言者を、指導者を、「こしあんを食べたら宝くじに当たり就職も決まりました! さあこしあんを選び、つぶあん派を滅ぼそう!」と旗を振る者を求めるようになるのだ、と(弱さと言ってしまうのは酷ではあります。ぜんぶ自分で決めなければならないことをふとしんどいと思ってしまうのは、弱い人間ではなく、ふつうの人間ですよ)。

 学問は私たちがどの立場を選ぶべきかを教えることはない、とウェーバーは言います。それを教える者は扇動者であり教師ではない、と。しかし学問は、あなたが(私が)ある立場を選ぶとき、その根拠を明確にすることが出来る。ふんわりとフィーリングでつぶあん派に属するのではなく、学問を修めた結果として内的整合性をもってつぶあんを選んだのであれば、なぜつぶあんなのかといつ誰に問われても論理の万力でもって答えることができる。それどころか学問的態度が身についていれば、こしあん派の言い分を分析し、非合理を排除し、自分のつぶあん派学問を再検討して、両者を和解させる新しい学説にも到達できるかもしれない。それは敗北ではない、学問は時代遅れになることを自ら欲するのですから。

 つまり、学問は自分の人生を制御し、自分の立場がどんなものであるのかを知る有効な手段である、というわけです。
 私はこの本が好きでした。

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