プロローグ 手入れ #1
ハーレム、ニューヨーク市
二〇一六年七月
午前四時。
決して眠らない市(まち)も今は身を横たえ、眼を閉じている。
フォードのクラウン・ヴィクトリアでハーレムの背骨を北上しながら、マローンはそんなことを思う。
人々は、アパートメントハウスやホテル、公営住宅や安アパートの壁と窓の向こうでまだ眠っている。あるいは眠れないでいる。眠っている人々は夢を見、眠れない人々は夢の先にあるものを見ている。人々は闘い、ファックし、あるいはその両方をしている。愛し合って子供をつくっている。通りに向けてではなく互いに向けて、罵声を吐くか、それともやさしいことばを囁いている。赤ん坊をあやして寝かしつけようとしている者もいれば、仕事に向けてすでに起きだしている者もいる。あるいは、ヘロインの塊をグラシンペーパーの袋に詰めている者もいる。起き抜けの一発にそれを必要としている中毒者に売るために。
娼婦たちのあと、掃除夫たちのまえのはざまの時間帯。手入れはそういう時間帯にやらなければならない。マローンはそのことを知っている。午前零時を過ぎたら、ろくなことは起こらない。それが彼の父親の口癖だった。彼の父親も同じ市(ルビ:まち)のお巡りだった。深夜のシフトを終えると、眼には不快さ、鼻には死臭、心には氷柱(つらら)を抱えて帰宅したものだ。心の氷柱は永遠に溶けることがなく、結局、それが彼の命取りとなった。ある朝、車から自宅の私道に降り立ったところで、彼の心臓は動きを止めた。医者が言うには、地面に倒れたときにはもうすでにこと切れていたということだ。
マローンが見つけたのだ。
まだ八歳だった。歩いて学校に行こうと玄関を出て、ブルーのオーヴァーコートを見つけたのだ。彼も手伝い、私道から掻き出した汚れた雪の上に。
まだ夜明けまえなのに、すでに暑くなっている。大家である神がヒーターのスウィッチを切るのを拒み、エアコンのスウィッチを頑なに入れようとしないそんな夏の日―― 市(まち)は苛立ち、機能停止、あるいは喧嘩か暴動が起きる寸前にある。あたりには日の経ったゴミと饐えた小便のにおいが漂っている。甘くて酸っぱくて腐敗したにおい。老娼婦の香水のようなにおい。
マローンはそのにおいが好きだ。
もっとじりじりと暑くなり、騒がしくもなる昼間でさえ――チンピラどもが街角に姿を現わし、ヒップホップの重低音が人の耳を傷め、公営住宅の上階の窓からは瓶やら缶やら汚れたおむつやら小便を入れたビニール袋が飛んできて、熱気の中、もともと漂う悪臭に犬の糞が加担する昼間でさえ――彼はここではない世界のどこかほかの場所に行こうとは思わない。
こここそ彼の街であり、彼のシマであり、彼の心臓だからだ。