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包丁を研ぐ 佐伯一麦

 中国北宋の詩人欧陽脩に、「余平生所作文章多在三上。乃馬上、枕上、厠上」なる一文がある。〈私がふだん文章を作るところは、馬上、枕上、厠(し)上であることが多い〉というほどの意味になるだろうか。確かに、机を前にしているよりも、ほかの場所にいるときの方が、よい考えが浮かぶ、ということはある。馬上は、現代なら電車やバスなど乗り物の中だろう、枕上こと寝床、厠上ことトイレに入っているときに、というのは身に覚えもある。
 私の場合はそれに、集合住宅のベランダで包丁を研ぐことが加わる。強いていえば、縁上か。20代の終わりから30代にかけて、北関東の電機工場で働きながら小説を書いていた頃、老工員から、金属加工に使うグラインダーを低回転にして、電工ナイフやペンチなど刃のついた工具の研ぎ方を教わった。ときおり近所の主婦が、切れなくなった包丁を持ち込むこともあった。
 包丁研ぎは、そのときの名残であり、グラインダーは持たないので砥石(といし)を用いる。ベランダの床に新聞紙を広げ、その上に砥石がうごかないように濡(ぬ)れ雑巾を敷き、水に十分浸(つ)けておいた砥石を置く。刃こぼれがあれば荒砥石も必要だが、普段の手入れは、中砥石と仕上げ砥石を使う。中砥石の上で、左手の人差し指、中指、薬指の3本を研ぐ刃の箇所の裏にあてがい、刃を上下させる。刃線をまんべんなく50回ほど研いだら、裏返してなぞるようにかえり(バリ)を軽く取る。次に仕上げの砥石もかける。両刃の洋包丁の場合は、両側をほとんど同じ頻度で研ぐ。
 菜切り包丁、出刃包丁、刺身包丁、それから両刃の小さな万能包丁、と手持ちの包丁を次々と研いでいく。30度ほどの角度と力を一定にして刃先を砥石に当てなければならないので、心を落ち着かせ平らかにすることが肝心であり、それが唯一のコツともいえる。だから、執筆に行き詰まったときは、急がば回れと研ぎに集中していると、焦っていた心が自(おの)ずと鎮まってくる。
 あれは、亡き父の看病の日々のことだった。連れ合いが奮発して市場でもとめた寒ブリを一尾携えて、見舞いから帰って来た。調理に取りかかった彼女が、出刃包丁が切れない、と私に訴えたが、〆切(しめきり)の最中で心の余裕がなかった私は、包丁研ぎを後回しにした。彼女は万能包丁でブリを捌(さば)きはじめ……、ブリ大根ができあがったときになって、包丁の刃こぼれに気づいた。身の中に刃の破片を探しながらの夕飯が味気なかったのはいうまでもない。
 いまは、小口切りのネギが繋(つな)がっているのを合図に、包丁を研ぐ。よく言われることだが、切れ味を取り戻した包丁で、トマトをすぱっと切ったときの手応えはほんとうにこたえられず、料理上手になった気分。
=朝日新聞2018年11月17日掲載