――『零號琴』の構想は初めての長編『グラン・ヴァカンス』(2002年)の刊行前からあったそうですね。いつごろからだったのでしょうか。
正確な時期は覚えていないです。すでに消えてしまった高度な文明があって、それがあちこちの星に楽器をたくさん残していて。ぼんやりとしたイメージでは、建物大の変な楽器がたくさんある。パイプオルガンみたいなものとか、いろんな変な音が出るものがたくさんあり、それを修理して回る主人公と、お話をかき乱す相棒がいて……みたいな感じになれば楽しいだろうなという、その程度のことだったですね。だから、あまり長くない、せいぜい中編くらいのもののシリーズとして。(『グラン・ヴァカンス』に始まる)「廃園の天使」シリーズを完結させた後、それをゆっくり楽しもうと思っていたところはありますね(笑)
連載完結から7年に及んだ改稿作業
――本作は「SFマガジン」(2010年2月号~11年10月号)に連載。自身初の雑誌連載はいかがでしたか。
連載はそんなに苦労することはなくって。元々「廃園の天使」の長編第2作に難航していたということもあったんですけれども、一文一文にこだわりすぎる書き方をしているとですね、いつまで経っても進まないというところがあって、筆がすいすい走るような小説を書いて、それで助走を付けようという。つまり、「廃園の天使」の続編を書くための勢いをつけるためのエクササイズをやろうという魂胆があったんです。なので、せいぜい短期連載で仕上げて、すぐさまその勢いで「廃園の天使」の続刊にかかろうというのが元々のもくろみではあったんですよね。ただ、やっぱり作品としてコントロールして、きちんとしたかたちで仕上げるにはまだ力が足りなかったので、連載の途中でずいぶん要らない部分が増えてしまったりだとか、最後どうしても扱う素材が大きくなりすぎて、きちんと完結させることができなかったなという悔いがあって。それをどうしようかと再検討しているうちに、これぐらい時間が経ってしまったと。
――連載完結から7年。改稿作業はどのようなものでしたか。
これだけの長編になると、登場人物が様々な思惑で動いていますし、その行動の結果であったり、それによって触発される部分があったりする。ですが、連載では(物語上の)秘密の暴露と合わせて、どさくさに紛れて幕を下ろしてしまったというところがあって、そこがどうしても納得ができなかったんですね。一癖も二癖もある登場人物に、それぞれふさわしい退場の場を与えないといけない。連載版「零號琴」の結末をどう救済するか、というのが一つのテーマでした。そこへたどり着くまでに苦労したっていう。すでにあるクライマックスで終われない以上、その先へ行くためのイベントがないと、登場人物たちに終幕を設けても全体のドラマとしては何かもう一つ。これを創るのはなかなか難題でした。
――クラシック音楽がお好きだそうですが、楽器あるいは音楽をモチーフに選んだこととも関係があるのですか。
いや、そんなにないですね。音楽も別に専門的知識があるわけでもないので(笑)。少なくとも、シリーズものでやるときには何か共通したアイテムがないといけませんよね。音楽に関係するものであれば、色んなことができるだろうなと。その程度ですね。
――「音響彫刻」や「静寂の音響体」と表現される、音であって音でないものが描かれます。
書き始める時点でそこの部分の構想があったわけではなくって、とにかくすごそうなやつをやろうというところで。ものすごく音が鳴ってるはずなのに、キャパオーバーすることによって何も聞こえない音の状態があると仮定するわけですよね。あとはうんうんうなりながら逆算して理屈を作っていくっていう、まあ、そんな感じですね(笑)。J・G・バラードの作品のモチーフにも音響彫刻というものがあって、これは彫刻自体が音を出したりするものですけれども、音響がそのまま彫刻であるようなものっていうのはいったいどういうものであるか、みたいな話をそこへぶつけて、なんとか説明を作ったと。
様々な音が重畳して、人間の耳には相殺されて、音が鳴っていることはわかるんだけれども、どういう音が鳴っているかわからない。ホワイトノイズでさえないような、そんなものがあるかどうかわかりませんけども(笑)。その音の状態そのものが、楽器自体が持っている性能であるとか、演奏している人間の精神的なキャパシティーを飲み込んで、それ自体が一種の演算装置として動くんだという。そのことも本当にできるのかどうかわかりませんけど(笑)。そういう、ある種の全能性のあるような大きなものがあって、そこから色々なものが随意に引っ張り出せるような状態にある、というのはたぶん私の好みのモチーフで、色んな作品にそれが共通して現れてきてると思いますけれども。
何かすごい音をどういうことばで表現するか
――小説のなかで鳴っている音の描写が非常に視覚的ですね。
音って表現のしようがないですよね。たとえばヴァイオリンであるとかピアノであるとかについては、ある程度、音の共通イメージもあるわけですし、たとえば音楽評論とかの分野で蓄積されたクリシェ(常套句)みたいなものもあるわけだから、ある意味ではそういったところからイメージを拝借している部分もありますよね。金管楽器の輝き、みたいなことを言ったりしますよね。その時点でもう、耳から入るイメージを目から入るイメージに置き換えているわけですし、逆に言うと、音楽そのものが、たとえば神様とトロンボーンを結びつけたり、音楽上の図像学的な結びつきはあるわけですけれども。
それとは別として、ラッパがたくさん鳴ってたりだとかっていうのは、音楽自体としても何か光っているものを示したいものはあるはずで、音楽そのもののなかに視覚的なイメージを表現しようという意図はあるはずですよね。基本やはり高い音については、位置的に頭より高いところをイメージするわけですし、短い音なのか長く持続する音なのか、高いか低いかで喚起されるイメージってのはたくさんあるので。もともと視覚的なイメージは楽音のなかに含まれているから、逆に視覚的なイメージを書いていけばそこから楽音が喚起されるってことはあるんじゃないですかね。私個人としては、ただ何かすごい音が鳴ってそうなものをどういうことばで表現できるかっていうことで、持っているイメージをお伝えできるように言葉を選ぶっていうところでしょうかね。
――物語を通して「想像すること」がテーマになっています。
想像力のかたちって色々あると思いますけれども、私の小説のなかで書いている想像力って、まあ、人間の想像力のなかではまだまだ初歩的なものだと思いますけれどもね。それこそ自然科学の学術の世界で、未知の科学現象や数学の世界を探究しておられる方々のイマジネーションっていうのは、もっともっと途方もないものであるはずで、私なんかはとても。書けば書けるようなものではあるのかなあと。ただ、書くのが大変っていうのはありますね。むしろ、もうちょっと簡単に書けば容易に想像ができるものについて、ある程度、詩的なイメージをちりばめて書くことによって、想像できるのかどうなのか、思い浮かべるべきものを読者が高く設定する効果があるかもしれませんね(笑)
サブカル的なものを無条件に楽しんでいいのか
――怪獣と巨人型兵器のとっくみあい、某女児向け番組を思わせる「あしたもフリギア!」の魔法少女など、戦後日本のサブカルチャーを思わせるモチーフがちりばめられていますが、どのような意図があったのですか。
そうですね。これはもう作品の根幹の部分に入ってくるのですけれども、ここで想像されているようなものは、実は平凡なものでしかないのではないか。もうちょっとかみ砕いて言うとですね、戦後の1960年代以降のオタク的カルチャーと容易に想像させるような固有名詞がたくさん出てくるような作品じゃないですか。たとえば牛頭はゴジラから取ってきた言葉でありますし、そういった用語をちりばめて、こうしたいかにもな物語が展開されることについて、そこに何か別の意図を感じてくれることを想定していたというか。これは何か裏があるのではないかとか、罠ではないかとか、あるいはどう考えてもこんな展開はいい加減ではないか、とかですね。そこに一定の留保を付けて読まれることを元々想定していたんですよね。
そこで立ち止まることによって、ここで書かれている想像というのが、そもそも手放しで喜んだり、楽しんだりして読むものではないのではないか。そのような疑惑を持って読み進めることで、最後の「無番」の章が出てきたときに、その意味が了解されるものであると同時に、これがオタクカルチャーを連想させるようなディテールに満ちて語られているということが、実は我々自身に対して向けられている。少なくとも我々の世代が喜んで楽しみ、書こうとしているSFの楽しさやモチベーションというのは、本当に信じてよいものなのかどうか。無条件に楽しみ、それを前提として再生産していっていいのかどうか。ということを、本当は書きたかったわけです。
さらに深くいくとあれなので、これぐらいでとどめておきますけれども(笑)。書く側のモチベーションであったり、読む側の楽しみ方であったりすることについて、註釈付きで、眉につばを付けながら、ここに書かれているものを我々はまともに受け取って、楽しんで読むべきなのか、ということについて、実は書いてきている物語です。そういうものとして読むことで、勢い込んで読んでしまった人には、もう1周楽しんでいただけるかもしれない。
――批評的な物語でもあると。
書く側としては批評的な意図みたいなものを結構強く含ませていて、それが読み手側で受容されて表面化するのはもう少し先ではないかと思いますね。それは『グラン・ヴァカンス』のときもそうで、あそこでは物語を楽しむこと自体についての、倫理的というとおかしいですけれども、そこについてちょっと考えてみてはという問いかけがあったので。つまり(物語上の)「ゲスト」と(小説の)読者を2重写しにする、という見解が共有されたのは、文庫本が出たころですね、多くの読者がそういう視点で読むようになったのは。
批評に対する批評に耐えうる強さが必要
――今年は批評を集成した『ポリフォニック・イリュージョン』も刊行されました。作家として、批評の仕事はどのように位置づけていますか。
批評ってある程度、一般性があって普遍性があって、批評についての批評に耐えうるような理論的強さが必要だと思っているんですけれども、私の場合はそういうよりも、実作者として、作者の意図であったり思いであったりというものが、非常に美しく見えているものについて、読んでいる人はさほどそういうところに気が付いていないなあという、そういう感覚があるんですよね。作者が苦労しているか苦労していないかとはかかわりなく、作者の美質や作品の一番魅力的なところへ届くための入り口みたいなものがあちこちに見えていて、それがいままで他の人に見えていなかったり、あるいはクローズアップされていなかったり、認識として共有されていないようなところを見つけ出して、ここはこんなに素晴らしいですよねということをお知らせするために書きたい、というところですね。
作者っておそらくですね、どんなに読んでもらえても、どんなに評価されても、作者の意図って1人の人に2割ぐらいしか伝わっていないものだと思うんですよ。それはあたりまえのことなんですけれども。作者の側にはテキストに書いたものの何十倍もの実質みたいなものがあって、そのなかから薄いスライスを必死の思いで切り出しているだけなので、一枚鉋をかけただけみたいなものですよね、一つのテキストって。なんだけれども、ここにこう書いてあるんだからもうちょっと読んでよ、みたいなところはあるわけなので(笑)。
特に、作者について評価が定着してしまうと、何となくその作者のモチーフであったり特質であったりっていうのが、お決まりの言葉で語られがちであったりするので。そうではなくて、もっと別のところにも、この作者なりの死に物狂いの苦しみの跡が、ほらこんなにはっきりと現れているじゃありませんかと。それはあくまで私の感想でしかないですけれども、それを書きたいなというところがありますね。私も解説文を頼まれたときに改めて読み返して、より深く気付くところがあるし、一読ではなかなかわからないですよね。
――ご自身が作品を批評する際の姿勢について教えてください。
読みとしては、テキストに沿って単純に読み、ごくあたりまえにそこから読み出せるもので勝負しているっていう感じですかね。批評を行っている主体としての私と、向かい合っている作品と。それから、ごく一般的に想定されるまわりの環境。それ以外の遠いところからものを引っ張ってきて、そのチャンネルで作品を読もうとか、そういうことはしていないですね。手元にあるのは作者についての基本的なバイオであったり、その作者についてごくあたりまえに認識を共有している読者に想定される教養、その程度のことしかくみ上げてはいないですね。そういう意味では、素直な鑑賞者と、文脈を共有している作品の受け取り手に向けて書いている。そういうものですね。誰かが書いてましたけど、私の書いている批評というのは、何かバックボーンがあったり一貫性があったりだとか、一つの観念のもとで色んなものに適用できたりとか、そういったことはあまり考えていなくて。それは作品の作り手によって持っている「あんこ」の部分がみんな違うからですね。
映画のプロダクションノートが好きだった
――ツイッターなどで自作について赤裸々に語っていますが、その理由は?
自分の作品も批評しながら作ってるっていうところがありますね。メモを書く段階で、自分の書いているこの部分はどのように解釈できるだろう、みたいなことを楽しみつつ書いているところはあって。こちらである程度、何を意図して書いたかっていうのを部分的にでもお示しすることで、もう一度興味深く読んでもらえることもありますし、もう一度読み返してもらえれば作品の賞味期限が延びるっていう部分もあるでしょうし(笑)。先ほどから言っているように、批評的な面も持ちながら書いているので、書くプロセス自体も面白かったりするわけですから、作者って書いてるときにこんなプロセスが起こったりするよっていうのは、読者にとっても面白い部分なのではないですかね。
昔から映画を観ることが好きだったんですけれども、その頃からパンフレットに載っているプロダクションノートを読むのが好きで。撮影中こんな苦労があったとか、火薬を何万本使ったとか、借りてきた戦車が何両とか、持ってきた弁当がだいたいどれぐらい消費されたとか、そんなどうでもいい話を読むのが結構好きで。そういう作られる過程とか作ってる人間の苦労とかも含めて、虚構は虚構として存分に楽しみつつ、映画ってそういうふうに作られてるんだってことも楽しむのも面白い。自分の作品については、発想のルーツを明かしていくのも、それはそれで面白いだろうなと思ってますね。
――近年の日本SF界をどのようにご覧になっていますか。
少なくとも私の世代から後は、日本SFの書き手として少なからず変わってきてる感覚があって。SFを教養にしてSFを書いている世代なんですよね。ところが最近、純文学とかを含めた一般文芸を指向して小説家になろうとしていた人が、SFをきっかけにしてデビューされる事例がたいへん増えてきていて。それは元々SFと純文学をパラレルに扱っていた円城塔さんあたりがまずは代表格であられるとして、一番新しい世代では(『ゲームの王国』で山本周五郎賞を受賞した)小川哲さんがいらっしゃいますよね。彼は率直に、色んなインタビューとかで、SFの文脈で自分のアイデアがどれぐらいのインパクトがあるかっていうのを正確に計量することが難しいと言っておられて、それはSFの文脈にずっとなじんでいた人間からはあんまり出てこない。
我々はむしろ、そのなかでどれぐらいこのアイデアは射程距離があるとか、どれぐらいの驚きをもって受けられるだろうとかいうふうなことがある程度、推測がつくので。彼はそうではなくて、SFはもちろん好きでたくさん読んでいたんだけれども、読書の中心にあったのは、たとえば新潮クレスト・ブックスであったり、海外の主流文学とか、そういう素地のなかから出てきたっていうことですね。それから、創元SF短編賞で出てこられた宮内悠介さんとか、高山羽根子さんとか、酉島伝法さんも、いま純文学系ですごいやつをたくさん出しておられて。純文学も含めて一般文芸のところで必ずしもデビューに結びつかない才能が、SFの角度から光が当たることで読者の目に触れる場所に出て行けるというか、そういう流れが来ている気がして。そういうところは非常に刺激になるし、面白い流れであるし、もうちょっとしばらく何とかしがみついて、伍して、生きのびていきたいなというところですね。
新しいSFが生まれるところの近くにはいたい
――若い世代の書き手との交流という意味では、東浩紀さんや大森望さんとの「ゲンロンSF創作講座」にも関わっていらっしゃいますね。
SFって本来的に、思考の自由さと腕前の熟練度の両方を要求されるところなんですよね。そうは言いながら、やっぱり発想の新鮮さ、いままで誰も読んだことのないようなもの、みたいなところが少なくとも作る側には大事なところなので、そういう意味では若い人が有利。人ってそうそう、イマジネーションのバラエティーを様々に取りそろえることはなかなか難しいので、たとえば一人の人間が小松左京と筒井康隆の両方を書けるかっていうと、それはできないわけですよね。なので、新しいものが生まれるところの近くにはいたいなと。そこを目指して、はつらつとやっている人たちを見ると、私ももう還暦が近いので、負けないようにがんばろうと、そういう闘争心をかき立てられるっていうのはあります。
――デビューから最初の長編まで21年。そこから本作まで16年。寡作であることについて、ご自身ではどう考えていますか?
なんですかね。SFというジャンルへの信頼ですね。それはジャンル自身が本来持っているというよりは読者層が持っているものへの信頼、と言っていいのかどうかわからないですけれども。つまり、長編を書くために10年沈黙していても、SFファンって覚えていてくれるんです。それは読者層の年齢が上がっているだけとも言えるんですけれども(笑)。それで、面白そうなら読んでくれる、そして評価してくれるというところへの信頼ですね。SFファンって、当然その時代時代のはやりはあるんですけれども、はやりだけでは評価しない。それから、これはという書き手が出てくれば、きちんと追う。非常に狭い世界なので評価が共有されやすいですし、ジャンル内のめぼしい新刊をある程度、網羅しようという読者層もいる。そのあたりはミステリと似ているかもしれませんけれども、ミステリそのものは基本的にもうちょっとマーケットが大きいんだろうと思うんです。
――いよいよ次は「廃園の天使」シリーズですね。
来年中に再開したいと。来年の年末の「SFマガジン」で連載再開できるといいなあと思っています。で、1年くらいで完結して。と先日のトークショーで言ったら、場内爆笑だったので(笑)。まったくあてにされていないという。でももう言ってしまったので、一応その気持ちでがんばるということですね。もう書きためているものもあることはあるので、できれば連載の半年分ぐらいを書きためてからスタートできればいいなあと思ってますね。(『零號琴』は助走だったわけですものね)息切れしましたが(笑)。(聞き手・山崎聡)