去年の今頃はウズベキスタンとカザフスタンを歩いていた。非常に得難い体験をしたものの、旅の後半で体調が悪くなり、「来年また来よう」と誓ったのだが、現地の友人から「忙しいのでしばらく相手できない」と連絡があり、今年は旅行できなさそうだ。
ああ、遠くへ行きたい。でも知らない街を歩くのも好きだけど、知ってる街で知らないものを目にするのも、同じぐらいときめいてしまう。
なんてことを考えながらバスに乗っていると、ふと「本」の看板が目に入った。えっ、こんな場所に本屋があったんだ。場所は千石、店名はアンダンテか。
自社ビルのオフィス空間をリニューアル
改めて、旅と暮らしの本屋アンダンテ(以下アンダンテ)を訪ねると、店長の前田康匡(やすまさ)さんが迎えてくれた。店がある場所は、社内報から書籍まで手掛ける産業編集センターの自社ビルで、もともとはオフィスとして使われていたらしい。そう、ここは同社の出版部が運営する本屋なのだ。
2000年に産業編集センターに入社した前田さんは、現在は出版部で書籍編集を担当している。店長だけど、現役の編集者でもあるのだ。
「大学では建築を専攻していたので、モノづくりには憧れていましたが、小学校から高校まで野球部だったし、文学青年というわけではなくて。具体的な将来を描いていたというより、いろいろな会社の入社試験を受ける中で、今の会社と出合いました」
前田さんは販売促進部に配属され、10年以上、書店回りをしてきた。その間、なじみの本屋が何軒も閉店していった。自分たちが作っている本を売る場所が狭まってしまうだけではなく、このままでは人々が本そのものと触れ合える場所もなくなってしまうのではないか。社内で、そんな危機感が共有されていった。
これからも良い書籍を世に生み出していきたいけれど、同時に違ったアプローチをしていくには。そうだ、自分たちで本屋やろう。オフィスは白山通りと不忍通り交差点すぐの場所にあり、1階の道路沿いは全面ガラス張りだった。通りから中がよく見渡せるスペースは、実に本屋向きではないか。なにより家賃がかからないから、売り上げが厳しい月があっても乗り切れるかもしれない。おまけに最寄りの都営三田線千石駅は駅前に本屋がないし、隣の巣鴨駅からも徒歩圏内にある。
かくして約1年の準備期間を経て、2024年の11月15日にアンダンテはオープン。「本屋が少なくなっていて、このままではまずいのではないか」と語ったことはあるものの、よもや自分が任されることになるとは思ってもみなかった、前田さんが初代店長に就任した。
「書店員経験者を招こうという提案もありましたが、何を基準にどんな本屋にしたいのかは、自分たちでまず模索して作っていこうとなりました。自分は学生時代のアルバイトも含めて書店員経験はありませんでしたが、これまでの経験を活かせると思いましたから、不安はありつつも楽しみに感じられましたね」
お客さんからのリクエストで生まれる棚も
約30坪の広さにオールジャンル揃えるのは無理がある。ならば今、自分たちが手掛けている、旅や暮らしの本をメインに置くのが自然ではないか。そこで棚を衣、食、住、遊、推とジャンル分けし、キーワードに沿ったテーマの本を並べることにした。
店内の在庫は約1万2000冊あるが、自社本の割合は5%にも満たない。出版社に併設されている本屋はPRスペースを兼ねていることが多く、自社本がメインというところが圧倒的だから、少々驚いてしまった。とはいえ『世界の本屋さんめぐり』など、店長自ら編集した本もしっかり置かれている(しかし魅力的なタイトルである)。
前田さんとアルバイトを含めて現在は6人のスタッフがいるが、選書はおもに前田さんが担当している。コンセプトから乖離せず、でもマニアックにもなりすぎない。「お客さんを突き放さない品揃え」を、常に心掛けているそうだ。
「旅と暮らしに関する本や雑誌をセレクトしていますが、リクエストがあったため、オープン時には扱っていなかったビジネス書や、イラストの技法書なども置いています。お客さんからは『これまで大型書店がある池袋まで行っていたので、地元に本屋ができて嬉しい』と言われましたが、当初は喜びの声を頂けることを想像していませんでした。地元に本屋を求めている方がこんなにいらっしゃるのかと、改めて気づきましたね」
キーワードから縦横無尽に広がる選書
入口から店内を見渡すと、左側の「食」や「住」などは白い棚、右側の「旅」は木目を活かした棚になっていて、その間にある雑誌や新刊などがメインに置かれている平台と可動式の棚は、その両方がミックスされている。グラデーションが効いている内装は、建築学科出身の前田さんのアイデアなのだろうか?
「いえいえ。温かみのある空間にしたいというコンセプトを伝えて、設計会社さんに提案いただきました」
立ち上げ時にはカフェや雑貨のスペースを作ろうというアイデアもあったものの、本以外のものを扱うと、どうしても本の売上比率が下がってしまうことから、まずは本だけを扱うことに決めた。しかし他店にないオリジナルグッズは作ってみることに。原稿用紙のマス目をイメージしたロゴデザインのトートバッグやポーチなどが並ぶ中、ブックバンドが目に付いた。カバンに本を入れておくと、他の荷物と擦れていつしかページや表紙が折れてしまう。そんな悲しみを味わったことがあるからこその、本あるあるグッズを目にして、思わず財布に手が伸びる。
おっと、その前に棚を見せていただこう。
たとえば地域に関する本は県別になっていたりするけれど、旅のカテゴリに詩集や小説が置かれていたりと、結構フリーダムな感じだ。何があるのか、じっくり端から見ていきたくなる。確かに「旅」といっても、自分が旅することから誰かの旅を知ること、はてまた旅にまつわる創作まである。その広がりは、実に多様だ。隣には一体どんな本があるのか。眺めていくうちに、気付けば店内をぐるりと一周してしまっていた。奥に進んでいくとレジ横にある「遊」のコーナーには、絵本がズラリ。これまで訪ねた書店は、入ってすぐの場所に絵本があることが多かった記憶があるのだけど……。
「絵本スペースを店内奥にしたのは、お子さん連れでも安心して本を選べるからです」
ああっ、なるほど! 確かに店の前は、歩道は確保されているものの、バス通りで交差点もほど近い。パッと外に飛び出されたら、ゆっくり自分の本を選ぶどころではなくなってしまう。でも入口は1か所のみだから、店奥の子どもが通りに出ようとすれば、誰かは必ず気付くはず。誰もがアンダンテ(「歩くような速さで」を意味する音楽用語)のペースで本が選べるよう、考え抜いた棚の配置になっていることがわかった。
オープンしてからの日々は「あっという間だった」と振り返る前田さんだが、とにかく長く続けることが目標で、自身が店長であることにはそうこだわっていないと語った。
「本屋がなくなっている状況を悲しんでいる版元の自分たちが、本屋をすぐに諦めてしまったらもっと悲しいですよね」
駅チカの自社物件で家賃がかからないことや、倉庫として使えるスペースがあることは、個人書店からしてみたら夢のような話かもしれない。「だからこそ続ける社会的責任がある」とまでは言わないけれど、どうか頑張って踏ん張って欲しい。ところで前田さん、背が高いですね!
「身長が186㎝あるので、上の棚にある本を取って欲しいお客さんの役に立てています。そういえばずっと186㎝でしたけれど、この間測ったら187㎝あったんですよ」
個人の努力ではどうにもならない大人の身長だって、いつしか伸びることもある。同じように努力だけではどうにもならない本屋を取り巻く状況も、見続けていけばいずれ変わるかもしれない。前田さんも私も、本に関わる者の一人としてその行く先を見続けていく気力と覚悟が問われているのかもしれないな。でも今日はいろいろ考えるのはやめといて、次の旅に持っていきたい本を探すことにしよう。
前田さんが選ぶ、ゆっくり歩くようにページをめくりたい3冊
●『<食べ方>の文化史』治部千波(教育評論社)
ヨーロッパの宮廷の食事作法が今の私たちの“食べ方”にどのような影響をあたえているかを紹介した一冊。スプーンやナイフがいつ頃から使われはじめたのか、当時の料理書にはどんなことが書かれていたのかなど、道具や料理書の変遷も学べて面白い。
●『喫茶店の水』qp(左右社)
喫茶店で出てくる水の写真がひたすら収められたフォトエッセイ。しかし、ただのグラスに入った水と侮ってはいけない。一枚一枚ゆっくり写真を眺めると、不思議なことにそこから物語がどんどん立ち上がってくるのだ。喫茶店の水の奥深さをぜひ味わってほしい。
●『りょこう』麻生知子(福音館書店)
おじいちゃんと孫が一泊二日の旅行にいく様子をまとめた絵本。旅行に行く前のわくわくした気持ち、ハプニングが起きたときのドキドキ感、旅の終わりの寂しさなど、一冊で旅した気分が味わえる。真上から俯瞰で描いた独特な構図の絵も楽しい。