この小説の主人公デニー・マローンは、ニューヨーク市警特捜部、通称"ダ・フォース"のトップに君臨し、刑事の王とも呼ばれる男。麻薬や銃による犯罪を取り締まり、市民を守る一方で、裏社会から利益も得る悪徳刑事の面も持っている。アメリカには「悪徳刑事もの」とでもいうべきジャンルがありますが、マローンはその典型ともいえるキャラクターです。
私も刑事が主人公の小説を書いていますが、警察がかかわるのは人間の汚い部分や底辺の様相だったりするので、社会の問題点を照らし出すために非常に良い舞台です。しかも警察官や、事件に巻き込まれた人たちの人間ドラマも描くことができます。
『ダ・フォース』の場合は、そこに家族との関係や、マローンのルーツであるアイルランド系コミュニティーの有様、人種間の微妙な感情や対立など、ニューヨークならではの問題がてんこ盛りにされている。いわば多文化が共存する特別な街を描いた"都市小説"という側面があります。
1ページ目を開けると、4ページ以上にわたって作者が執筆中に殉職した警官の名前のリストが載っています。それが、銃社会のアメリカのリアルな姿なのでしょう。そして小説の冒頭で、マローンは監獄にいると読者に示される。
つまり読み始めた瞬間に、読者はこの小説が絶望で終わると分かるわけです。これぞまさに、ノワール小説の真骨頂。最近は最後に希望が残る作品が好まれがちですが、裏社会を描いたノワール小説は、絶望を含めて味わうもの。その魅力をぜひ知ってほしいですね。
古いタイプのハードボイルド小説と違うのは、心理描写が細かい点。スピード感あふれる展開のあちこちに、マローンの葛藤や迷いが点描のように浮き上がり、読む人の心に突き刺さってきます。そこに、ある種のせつなさもある。ノワール小説に慣れていない人は、そのあたりの心情を頼りに読んでいくのもいいかもしれません。また描写が映像的なので、あたかも映画を見ているような高揚感も味わえます。
さすがドン・ウィンズロウだなと思うのは、ニューヨークという街の切り取り方が実にうまいこと。主な舞台となっているマンハッタン北部は、もともと荒れているエリアです。私もマンハッタンのさらに北にあるブロンクスを歩いた時、オイルの臭いが街に満ちていて不安になりました。マッチを擦ったら引火するような……そんな街の匂いが、ものの見事に描かれている。街をスパッと切って断面を見せるのは、彼が得意とする手法なのでしょう。
一方で、荒れたエリアからそう離れていないところに超高層マンションがあり、南のほうに行くと、チャイナタウンやリトルイタリー、インド人街など、ある特定のルーツを持つ人たちのコミュニティーがあります。この小説でもイタリア人のマフィアやドミニカ人の麻薬組織の親玉などが登場し、特色あるエリアが出てくるので、地図と照らし合わせながら読むのも楽しいかもしれません。
いずれにせよ、ニューヨークというのはわけがわからない街で、何があってもおかしくはないという想像を、最大限、小説という形で提示してくれている。世界中誰もが知っている華やかな街の、暗黒の面の魅力を巧みに紹介している本だなと感じます。
ドン・ウィンズロウは、私が読み始めた1993年頃は、ニール・ケアリーという若い探偵が主人公のもっとソフトな作品を書いていました。青春小説をも思わせる洒脱さもあるし、当時のハードボイルドとは路線がちょっと違ったので、面白い作家が出てきたな、と思ったものです。
ところがしばらく休筆した後、アメリカとメキシコの壮絶な麻薬戦争を描いたベストセラー『犬の力』を発表。暴力の描写を厭わない作風となり、その変貌ぶりにびっくりしました。その間に何があったのかは謎ですが、不思議な作家です。この先、また変貌する可能性もないとは言えません。長年の読者としては、それも楽しみでもあります。ほかに、サンディエゴを舞台にサーフィン好きの探偵が活躍する「ドーン・パトロール」シリーズ(『夜明けのパトロール』ほか)も毛色が違って面白い。
『ダ・フォース』は、ニューヨークを描いた代表的な都市小説として、後々読み継がれていくはずです。この作品で初めてドン・ウィンズロウと出会った人は、ぜひ『犬の力』など彼の他の作品も読んでみてください。