うまいなあ、と思えるものに遭遇したときの嬉(うれ)しさは格別なるもので、しかもそれが、人生最初の感銘であったりすると、私は一生忘れない。
小学校三年生くらいのときに、伊東へ海水浴に行った。その時は、旅館ではなくて、養鶏場を営んでいる知人の家に泊めてもらった(らしい)。毎朝の食事に、ふつうは見かけないような巨大な卵やら双子の卵やらが出て、こういうのは売り物にならないので、自家用で食べるのだ、と説明されたが、どれもみな美味(おい)しい卵であった。
ある日の夕方、道端に出した七輪の上に黒く煤(すす)けた行平鍋(ゆきひらなべ)を乗せて、その家のご隠居のお爺(じい)さんが、なにか旨(うま)そうなものを煮ていた。
私は、食べ物で興味を引かれることがあると、看過することができず、ついつい、ジーッと凝視してしまう癖(へき)がある。そのときも、きっとそうやって、七輪の前にしゃがみ、お爺さんが煮ている鍋を見つめていたに違いない。なにかとても美味しいものが煮えている芳香が漂っていた。
あまり熱心に見つめていたからであろうか、それとも、私が、それは何を煮てるのかと訊(たず)ねでもしたのであったろうか、ともかく、お爺さんは楽しそうに鍋をかき回しながら、「モツを煮てるのさ。喰(く)ってみるか」と言った。
モツというものは、それまで食べたことがなかったから、どういうものであるかわからなかったが、もう卵を産まなくなった鶏はつぶして、その肉も臓物(モツ)も、こうして喰うのだということを、お爺さんは坦々(たんたん)と話して聞かせた。私はそれを聞いて、べつに鶏に憐愍(れんびん)を覚えることもなかったし、内臓を喰うのが気味悪いとも、むろん思わなかった。なにしろ、あまりに旨そうな匂いがしていたからである。
もともと、食べることに関しては、決して遠慮をしないのが私の身上(しんじょう)であったから、もちろん一切れ食べさせてもらったのだが、たぶんあれは腸のところでもあったろうか、こりこりして、得(え)も言われず旨いと思った。
これが私が鶏のモツ煮を食べた最初の記憶である。その時のあの醬油の煮え立つ香り、モツの歯ごたえや、甘辛い味、それらの総合としてのモツ煮の風味をば、六十年も経った今でもはっきりと記憶している。
つまりそれだけ、なんというか「一瞬の気合」をもって、食べ物に向きあうとでもいうようなところが常に私の心の中にあったような気がするのである。かにかくに、初めてコーラを飲んだときの衝撃、初めてピッツァを食べたときの不可思議な食感、初めてカレー蕎麦(そば)を食べたときの得もいわれぬ美味。良かれ悪(あ)しかれ、人生の時々に遭遇した味わいの一つ一つが、楽しくも消し難い記憶となっているのである。=朝日新聞2019年1月26日掲載
編集部一押し!
- インタビュー 恩田陸さん「spring」 バレエの魅力、丸ごと言葉で表現 朝日新聞文化部
-
- ニュース 本屋大賞に「成瀬は天下を取りにいく」 宮島未奈さん「これからも、成瀬と一緒なら大丈夫」(発表会詳報) 吉野太一郎
-
- インタビュー 北澤平祐さんの絵本「ひげが ながすぎる ねこ」 他と違うこと、大変だけど受け入れた先にいいことも 坂田未希子
- インタビュー 「親ガチャの哲学」戸谷洋志さんインタビュー 生まれる環境は選べない。では、どう乗り越える? 篠原諄也
- 小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。 【特別版】芥川賞・九段理江さん「芥川賞を獲るコツ、わかりました」 小説家になりたい人が、芥川賞作家になった人に聞いてみた。 清繭子
- BLことはじめ BL担当書店員が青田買い!「期待のニューカマー2023」 井上將利
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(後編) 辞書は民主主義のよりどころ PR by 三省堂
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(前編) 「AI時代」の辞書の役割とは PR by 三省堂
- インタビュー 村山由佳さん「二人キリ」インタビュー 性愛の極北に至ったはみ出し者の純粋さに向き合う PR by 集英社
- 朝日ブックアカデミー 専門外の本を読もう 鈴木哲也・京大学術出版会編集長が語る「学術書の読み方」 PR by 京都大学学術出版会
- 朝日ブックアカデミー 獣医師の仕事に胸が熱く 藤岡陽子さんが語る執筆の舞台裏 「リラの花咲くけものみち」刊行記念トークイベント PR by 光文社
- 朝日ブックアカデミー 内なる読者を大切に 月村了衛さんが語る「作家とはなにか」 「半暮刻」刊行記念トークイベント PR by 双葉社