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母の料理と妻の料理 宮城谷昌光

 母が旅館の女将(おかみ)であったことは、すでに書いた。
 正確におぼえていないが、私が小学二、三年のころに、母は旅館をたたんで、私とふたりだけの侘(わび)住まいをするようになった。が、私はすこしもさびしくはなく、むしろうれしかった。旅館では母とふたりだけですごす時間がほとんどなかったからである。やがて私はあることに気づいた。
 ――母は料理が上手(うま)くない。
 味噌(みそ)汁には、ときどきとけ切らない味噌の玉が残っていた。煮物も、醬油(しょうゆ)がきつかった。要するに、母は旅館の板場で指揮をとっていたが、自分ではなにも作っていなかったということである。そのことがわかっても、私はけっして、
 「まずい」
 とは、いわないことにした。それが子としての親への礼である。小学生がそういうかたくるしい表現をおもいつくはずはないが、それに近い意(おも)いをもったことはたしかである。とにかく食卓が苦痛の場になった。が、私はその苦痛に耐えつづけた。
 私が小学五年生のときに、愛知県蒲郡(がまごおり)市三谷(みや)町に温泉が湧いたことで、東部の丘阜(きゅうふ)に旅館と売店が建てられることになった。母はその売店のひとつをなかば借用するかたちで、引っ越しをおこない、店主となった。むろん私もそれにともなって売店の子となり、中学生となった。
 この店にはふたりの女店員がいて、ひとりは住み込み、いまひとりは通いであった。住み込みの女店員は、私が高校生になると、人が替わった。あるときその女店員が、
 「グラタンを作ってあげようか」
 と、いった。でてきたグラタンを食べた私は、母の料理よりもひどい、と感じた。下には下があるものである。そのとき、料理に関して結論めいたものをいだいた。すなわち、女性は料理を上手く作れない。一流の料理人、シェフといわれる人はほとんど男である。それが事実であるかぎり、私は料理にはよけいな幻想をもたないことにした。
 大学生となり、会社員になっても、私の体重は五十キロにとどかなかった。冬になると東京の寒さにふるえつづけ、かならずカゼをひいた。食べることに意欲がなかった。たまに帰省すると、母の姉に、
 「栄養失調のキリギリス」
 と、からかわれた。そういう私が見合いをして結婚した。そのときの妻の年齢は二十四で、これからの人生経験のひとつとして料理も学んでゆくという若さにみえた。料理の苦手な母はいきなり妻を厨房(ちゅうぼう)に立たせた。妻の料理を食べた私は驚嘆した。三か月後に、私の体重は六十キロになった。=朝日新聞2019年2月16日掲載