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大切なのは負けを自分で認めること 将棋棋士・谷川浩司さん@滋賀・竜王町立竜王中学校

文:角田奈穂子 写真:白谷達也

 「この中学校で授業をしたいと思った理由の一つは、町の名前にひかれたからです」

 将棋棋士の谷川浩司九段は、滋賀県にある竜王町立竜王中学校1年4組の生徒30人を前に話し始めた。町の名前は町内にある山が由来だが、竜王はプロ棋士のタイトル称号であり、飛車の成り駒の名前でもある。

 谷川さんが将棋を始めたのは5歳のとき。生徒たちより一つ上の2年生のとき、史上2人目の中学生棋士となった。

 「将棋をやっていてよかったと思うことは、たくさんあります。一つは読解力を身につけることができたこと。小さい頃から強くなりたい一心で新聞の将棋欄や将棋の本をよく読んでいたおかげです。もう一つは、集中力です。何時間も続く対局を経験することで、4050分の授業が苦にならなくなりました」

 生徒のほとんどは、将棋を指したことがない。オーサー・ビジットに備えてルールはテキストで予習したが、駒を触るのは初めてという生徒も少なくなかった。

 谷川さんは将棋の素晴らしさは、礼儀作法を通じて相手を重んじることと話す。将棋は、始めるときは「お願いします」、終わったときは「ありがとうございました」と必ずあいさつをする。そして、一番大切なのが、負けを自分で認めることだという。

 「負けが決まったときは、『負けました』と口にしなければなりません。とてもつらいし、悔しい言葉です。でも、負けを認めることで勝負に責任を持ち、自分の弱点にも気づけます。そして、次はどうやったら勝てるかと発想を切り替えることができるのです」

 授業の後半は対局を体験する。先手と後手の2チームに分かれ、机の上に置いた大盤を間にはさんで向き合う。あいさつをしたあと、順番に一人ひとりが一手ずつ指していく。

大盤を使って授業をした谷川浩司さん
大盤を使って授業をした谷川浩司さん

「角を交換する?」

「飛車で歩を取ったら?」

 将棋好きの生徒がリーダー役になり、みんなで次の一手を考えている。パチッと盤に駒が置かれる音が教室に響く。対局が進むにつれて、教室の空気が引き締まってきた。谷川さんも一手、進むごとに「いい手だね」「なるほど」と声をかけてくれる。ほめられた生徒がにこっと笑った。

 お互いに30手を指したところで対局はいったん終了。ほんとうは最後まで指したいけど時間がない。その時点の情勢を谷川さんが分析し、どちらが勝つとみるか、判定してくれた。負けたチームは悔しそうな表情を見せながらも、大きな声で「負けましたー」と頭を下げた。

 谷川さんはこれまで2千局以上を経験してきた。もっとも思い出に残っているのは、1995年の王将戦。相手は、当時「6冠」だった羽生善治九段だ。羽生さんの「7冠」を阻止するためにも、自身が持つ王将を防衛しなければならなかった。

 王将戦の第1局は、谷川さんが勝利し、第2局を前にした1月17日、阪神・淡路大震災が起こった。谷川さんは神戸在住だ。自宅の建物は無事だったが、ガス漏れによる全住民の避難勧告が出された。生まれ育った実家は全壊した。6千人以上が建物の倒壊や火災で亡くなり、物資や人的な救援が遅れ、被災地は混乱を極めていた。谷川さんは避難生活を経て、神戸にいては対局へ向かうのが難しいと判断し、車で大阪へ向かった。10時間以上かけて到着したホテルで、谷川さんは初めてほっとした。

谷川浩司さん
谷川浩司さん

 「それまでの私は羽生さんに負けが込み、弱気になったり、『また負けるのではないか』と意識過剰になったり、揺れ動いていました。でも、避難先のホテルでお風呂に入り、温かいごはんをいただいたとき、当たり前と思っていたことが当たり前ではないことに気づいたのです」

 そして、王将戦の前に組まれていた公式戦に臨んだ。「将棋盤に向かって座ったとき、将棋を指せる幸せが湧き上がってきました。将棋が好きで好きでたまらなかった子どもの頃の気持ちがよみがえり、初心に帰ることができたのです」

 その後、王将戦にのぞんだ谷川さんは、第7戦までもつれながら、王将を守った。

 人生には思いがけないことが起こる。そのときに奮い立たせ、支えてくれるのは、自分の原点である「何が好きか」ということだ。谷川さんは、阪神・淡路大震災のつらい経験を通じて、自分がいかに将棋を愛しているかという気持ちに改めて気づくことになった。「好き」「うれしい」「悔しい」という素直な気持ちは、すべての出発点になる、と谷川さんは生徒たちに語りかけた。

 「自分の頭と体で感じることが考える力になり、自主性のある行動につながります。自分はこれが好き、これが得意と感じる気持ちを大切にしてください」(ライター・角田奈穂子、写真家・白谷達也)