1989(平成元)年2月9日、手塚治虫死去。平成は「マンガの神様」の不在とともにはじまった。同じ年の暮れには、戦前、戦中に子供たちの人気を集めた「のらくろ」の作者・田河水泡もこの世を去り、昭和からのマンガの歴史には、ひとつの区切りが刻まれることとなった。
かつてマンガに熱中した元「マンガ少年」や元「マンガ青年」にとって、手塚の死は何よりも昭和という時代の終わりを実感させた出来事だった。新聞、テレビで大きく報じられただけでなく、各マンガ誌も追悼ページを掲載し、その旅立ちを惜しんだ。
「我々は、手塚作品で大人になった」という編集長名の切々とした追悼文に誌面を割いた「ビッグコミックスピリッツ」のように、青年誌や女性マンガ誌など、「マンガの神様」の突然の死にとりわけ激しく反応した雑誌の読者層の年齢は比較的高めでもあった。当時、「週刊少年ジャンプ」や「コロコロコミック」に熱中していた年若い読者たち(筆者もそのひとりだ)にとっては、「手塚治虫」の名前は必ずしも自身のマンガ経験と不可分なものではなかったろう。
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こうした手塚治虫と「昭和のマンガ」に対する微妙な温度差の延長線上に、ジャンルや文法が多様化、細分化し、メインストリームなきまま広がり続けていった平成のマンガの風景が立ち現れてくる。まだ年若かった読者たちにとって、手塚治虫の作品は全集や文庫、またはリメイクやパロディーを通じて、面白さや奥深さを自分なりに「発見」するものになっていった。
だが当時のマンガ情報誌の記事を見ると、手塚は昭和の終わりごろ、改めて「少年マンガ」に挑もうとしていた、という。あらゆるマンガの領域で常に最前線の作家であろうとした手塚が平成時代に描くアクチュアルな少年マンガを読んでみたかったという、残念な思いもする。
一方で「マンガの神様」の死は、マンガという文化への社会のまなざしにも大きな影響を及ぼした。翌年、東京国立近代美術館が初めてマンガを扱う「手塚治虫展」を開催し、現在へと続く美術館でのマンガ展の道を付けた。また、兵庫県宝塚市に手塚治虫記念館が開館するなど、マンガを扱う文化施設も急増した。手塚治虫の業績を振り返る中で、マンガは戦後日本で手塚をパイオニアとして生み出された独特の文化だという神話が社会に浸透していく。
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こうした平成初めの一連の動きは、マンガが良くも悪くも「国民文化」となっていった過程とみなすことができるだろう。「子供の読み物」としてスタートした物語マンガは、1960年代以降の若者文化の波と結びつき、やがてさらに上の年齢層まで行き渡った大衆的な娯楽として、他方で「マンガ青年」や「おたく」といったサブカルチャー的共同体のメディアとして、存在するようになった。
こうした状況に加え、「日本人は、なぜこんなにも漫画が好きなのか。電車のなかで漫画週刊誌を読みふける姿は、外国人の目には異様に映るらしい」という書き出しで始まる、手塚の死去翌日の朝日新聞社説「鉄腕アトムのメッセージ」に見えるように、日本という国民国家の枠組みとマンガという文化領域を結び付けた、ある種の文化ナショナリズム的な見方が手塚の死を契機として顕在化する。それは、海外からの視線をことさらに意識した2000年代の「クール・ジャパン」へも結びつくこととなった。
読者もマンガ作品もそれぞれ多様化していく一方で、「国民文化としてのマンガ」という新たな幻想が、「マンガの神様」の不在をきっかけに日本社会の中で育っていった現象は、平成が終わろうとしている今、改めて検証される必要があるだろう。=朝日新聞2019年2月22日掲載