東日本大震災から8年。「記憶の風化」という言葉とは裏腹に、毎年3月が近づくと、復興に関するニュースが毎日のように更新される。SNSでは日々「議論」が巻き起こり、苛烈な言葉が今なお頻繁にやりとりされている。言葉があふれた8年でもあったのだ。だが、今回紹介する3冊は、私たちがそれでもなお語ってこなかったものに光を当て、この8年の、震災と原発事故をめぐる特異な言論空間を鋭く批判しているようにも思える。私たちは、ここから新たな語りを生み出すことはできるだろうか。
福島県いわき市在住で、原発事故直後より地域の放射線測定に関わってきた安東量子による『海を撃つ』は、自身の活動や生い立ちにも触れながら、放射能によって傷つけられた故郷を回復しようという人たちの実践や葛藤をつづる。驚かされたのは本書が実に文学的であったことだ。私にとって安東は「科学の人」だった。しかし本書の安東は、測定のノウハウや詳細な汚染の状況をひもときはしない。福島、広島、ベラルーシの人たちの言葉に耳を傾け、観察し、静かな文体で彼らの葛藤を描き出す。沈思の言葉は熱狂を鎮め、「暮らしの喪失と回復」という、震災と原発事故を語るもう一つの回路を示してくれる。
外部からの視点
震災を語ろうとすると、いつも主語が大きくなってしまう。置かれた状況も暮らしも、決断もそのプロセスもひとりひとり異なるのに、「被災地」や「福島」とひとくくりにし、私たちは何かを分かったつもりになってしまう。『あわいゆくころ』の筆者、瀬尾夏美のアプローチはまったくの逆だ。「遠くから大きく」語るのではなく、仙台から陸前高田に通い対話を続け、激震地の言葉の重みを背負いながらも、「近くから小さく」、美術家である瀬尾本人のフィルターを通して描こうと試みる。外部性のある瀬尾だからこそ到達できた小さな言葉たちは、大きな主語から抜け落ちた「固有の震災」に光を当てる。
文化でつながる
いわき市で繰り広げられている「いわき万本桜プロジェクト」も美術家が関わるプロジェクトだ。川内有緒の『空をゆく巨人』を一読すれば、プロジェクトに関わる美術家の蔡國強と、蔡をサポートする会社経営者の志賀忠重の二人が「巨人」なのだろうとすぐに想像できる。しかし本書を読み進めると、巨人とは、桜やアートに希望を見いだし、故郷を取り戻そうという市井の人たちにこそ贈られた言葉だと気づく。川内は、桜の里山を「『帰りたい』と思う場所」だという。そしてそのうえで「見えない壁で断ち切られた人間の?がりをもう一度結び直すのは、桜やアートといった『文化』なのかもしれない」とつづる。文化とは、その土地に根付いた「暮らし」そのもの。ならば、人の?がりを結び直すのは「暮らし」でもあるはずだ。
暮らしは、「魂」にも直結する。故郷を奪われることを、生きながらの「死」と考える人もいるだろう。そのような喪失に向き合い、それでも取り戻そうとする人たちの存在を、私たちは知ろうとしてきただろうか。
3冊は、正義を押し付けることも、大きな敵と戦うこともなく、暮らしの喪失と回復を語る。そこに暮らす人たちの、絶対にひとくくりにはできない静かな葛藤と希望は、賛成/反対、戻る/戻らない、といったわかりやすい対立構図の境界線を緩やかに解きほぐしてくれる。それはやがて、当事者/非当事者という境界すらもあいまいにしてしまうだろう。3冊を読み終えた今、震災に関係のない人などもはやいなくなる。これから待たれるべきは、そのように当事者を拡張する、小さな語りなのではないだろうか。=朝日新聞2019年3月9日掲載