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古井由吉「この道」書評 新たな意味まとう老いの残照

評者: 佐伯一麦 / 朝⽇新聞掲載:2019年03月30日
この道 著者:古井 由吉 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065143360
発売⽇: 2019/02/02
サイズ: 20cm/252p

この道 [著]古井由吉

 作者が五十年来住む集合住宅は馬事公苑に隣接している。日々の散歩の目を楽しませ、小説中に印象的な細部の描写をもたらして来た雑木林のある公苑は、皇太子(現天皇)生誕の奉祝記念行事の一環として造られたもので、作者とほぼ同年の歴史を持つ。それが、五輪の馬術競技の会場に指定されたので、改造のために一般の者には立ち入り禁止となり、閉園前に、見納め、という心地で見つくしては、〈裸になった樹木の美しさにあらためて感歎(かんたん)した〉〈この環境がなければ、心身がここまで持ったことか〉と作者にしては率直と思える感慨を抱く。
 樹木に関しては、自我というのは、現在の人間が考えるように自分だけのものではなく、過去の人間の自我が、樹木が根っこから養分を吸い上げるように、自分の中に伝わってきているんじゃないか、とも他の所で述べていた。
 梅の香が夜に漂う春先から翌年の盛夏まで、季節を追って連作風に8編が並ぶ。〈季節が人の心身の内まで分け入り、そして姿となってあらわれるということが、今の世にはよほどすくなくなったのだろうか〉と文中にあるが、その稀少な例を本書は描き出す。また、〈老耄(ろうもう)というのは、時間にせよ空間にせよすべての差異が、隔たったものがたやすく融合する、そんな境に入ることではないのか〉と手繰り寄せられる記憶と想念は、「雪の下の蟹」「椋鳥」「明けの赤馬」「知らぬおきなに」……など、かつての短編群のイメージが、老境から残照となって新たな意味をともない照り返されるかのようだ。
 生老病死に触れられながらも、陰鬱さは感じられず、むしろ笑いの色さえ覗くところに、徳田秋声晩年の短編「町の踊り場」に細くつながる風韻を感受しつつ、読書もまた、知識を貯め込むのではなく、いったん忘れられても何かの折に忘却の湖から蘇ってくる記憶のようであることがあらまほしい、と思わされた。
    ◇
ふるい・よしきち 1937年生まれ。作家。「杳子」で芥川賞、『仮往生伝試文』で読売文学賞。『野川』など。