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「手塚治虫と平成」を読み解く 踏み出した先の非日常と未来

平成に改元して、およそ1カ月後に手塚治虫は亡くなった。葬儀にはたくさんのファンが参列した=1989年

 平成元年に世を去った手塚治虫の名はいまの若い人たちにも知られている。「戦後、手塚が『映画的手法』をマンガに導入したことが、ストーリーマンガの起源である」という通説も、かなり知られている。だが、作品が広く読まれているわけではない。手塚マンガは高尚なものだと漠然と思っていて、手に取らずにきたという話は何度となく聞いている。マンガの「起源」とされ、偉人として記憶されていることが、同時に若い読者を手塚作品から遠ざけているという逆説がある。手塚作品の真価、おもしろさが覆い隠されているという言い方もできる。
 だからこそ、現代の私たちは、手塚治虫を「起源」から解き放ち、一人の巨大な才能であったことを思い起こすべきなのだ。「いま」に連なるマンガ家たちは、その手塚作品にマンガの理想と未来を見いだし、勇気づけられながら作品を作り続けた。その営みの積み重ねこそが私たちの「マンガ史」であることは事実だ。であれば、手塚は、いつの時代もそこに安住せず、そこから踏み出していく存在として、あらためて見いだされるはずだ。その踏みだす先とは、非日常であり、未来である。もとより手塚治虫とは、いつの時代も一線のエンターテインメントを志向していた作家である。また、いまでいう「萌(も)え」に通じるような、手塚キャラたちの比類なき可愛さについても、しっかり言っておくべきだろう。

人ならざる存在

 マンガには二つの軸がある。日常に沈潜し、エピソードがどれも現実に起こりそうであることを前提に、内面と人生を語るものである。もうひとつは、人間と人間ならざる存在を絡ませ、イマジナリーな世界をあたかも実感できるものであるかのように読ませるものだ。前者の卓越として、平成10年代のヒット作、佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』を例にあげよう。研修医を主人公に、現実の病院で起こりうる(と思われる)出来事を、緻密(ちみつ)な絵で「リアル」に描いたものだ。他方、同作がタイトルに引用する手塚『ブラック・ジャック』は、医学的知識をもとに外科手術を描きつつ、ときに幽霊や超能力などや、動物との情愛をも織り込み、現実に即した具体的な想像の難しい「身体」を描き続けてきた。  とりわけ1973年に連載開始の『ブラック・ジャック』に至る、60年代後半からの作品群には、手塚の特徴である丸っこい描線による、躍動するキャラのイメージと、この時代に劇画によってもたらされた、より「リアル」な表現との拮抗(きっこう)を見て取ることができる。この拮抗のテンションを考えても、手塚作品を未読の読者には、この時期の作品が好適なように思う。何か一作品を選ぶのは難しいが、『きりひと讃歌』をあげておく。劇画的なリアリズムに支えられた、シリアスな社会背景の反映と同時に、身体の変容、メタモルフォーゼを描きつつ、これも手塚の持ち味というべき、科学的な思考をストーリー展開と絡めた作品である。

キャラの遺伝子

 もうひとつ、今年アニメ化された『どろろ』も、この時代の作品である。失われた身体を取り戻すことに始まる寓意(ぐうい)的な主題において、平成のヒット作の荒川弘『鋼の錬金術師』とも通じるだろう。さらには、ある種の品の良さ、価値観に対する相対化といった共通項を見いだすことができる。また、コメディリリーフ的に挿入されるデフォルメされたキャラ絵などの、シリアスになりきってしまわないユーモアもそうだ。アニメなどのメディアミックスという点も注目すべきだろう。手塚治虫の遺伝子は、マンガと、隣接するメディアを結ぶキャラにこそ、宿っているのかもしれない。=朝日新聞2019年4月13日掲載