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中世の「奥大道」750キロの姿 鎌倉と奥州結んだ幹線、遺物など展示

無量光院跡(岩手県平泉町)出土の金銅製装飾金具

 鎌倉と奥州をつないだ中世日本の最長の幹線道路「奥大道(おくだいどう)」。一般には「鎌倉街道」の一つとして位置づけられる、この道の実態を考える企画展「下野(しもつけ)の鎌倉街道―道を行き交う人と物―」が栃木県立博物館(宇都宮市)で開かれている。

 プロローグなどを含め全6章、285点で構成。鎌倉街道以前の官道である「東山道」から、「奥大道」へと幹線がシフトしていく過程をたどっていく。

 奥大道は源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした1189年の奥州合戦の際にたどった道を基本に発展した。宇都宮、白河、陸奥国府、平泉などをへて陸奥の外ケ浜へ至る約750キロ超で、道幅は広い所で東山道と並ぶ約12メートルだった。

 会場には、奥大道の沿線に点在する日光道西遺跡(栃木県小山市)、芳野遺跡(福島県白河市)、奥州藤原氏の本拠地だった平泉(岩手県)の遺跡群などの出土遺物が並ぶが、見ていて感じるのは、出発地にあたる鎌倉を含め、遺物の基本的な組み合わせが、ほぼ決まっていることだ。

 中国から輸入された白磁や青磁の碗(わん)に加え、儀式で使用された使い捨てのかわらけ、日常的に使われた常滑などの甕(かめ)類――。「街道沿いの町がほぼ同じ生活レベルにあった様子がうかがえる」と企画した馬籠和哉・主任研究員。

 「奥州道中分間延絵図控(ぶんげんのべえずひかえ)」や「善信聖人親鸞伝絵」などの絵図や絵巻なども使い、すでに失われた中世の道の姿を浮かび上がらせようとした、佳品の展覧会である。6月16日まで、月曜休み。(編集委員・宮代栄一)=朝日新聞2019年5月15日掲載