もしも私たちが、そう、これを書いている私も、読んでいるあなたも、自分の奥に抑え込んでいる思いや気持ちを言葉にできて、そしてそれをそのまま受け止めてもらえたならば、おそらくその瞬間に魔法のように、いやむしろ魔法が解けたときのように、何かが変わるに違いない。おとぎ話とは逆に、がんばって王子のふりをしようとしてきた自分が本当はカエルだったとしても、その姿を受け止めてもらえたならば、私は安心してカエルでいられるだろう。
だが、それがどれほど難しいことか。奈良少年刑務所で起きたことは、著者は奇跡ではないと言うけれど、私にはやはり奇跡のように思われる。十七歳から二十五歳までの受刑者たち、その中でも集団行動ができず孤立した「精鋭たち」に対して社会性を身につけてもらうための授業が行われた。作家である寮さんはその講師を月1回担当した。なによりもだいじなことは、何を言ってもだいじょうぶなんだという安心感を与えること。それができれば、おずおずとでも人は抑え込んでいたものを言葉にし始める。そしてそれが詩になった。いいとか悪いとかいうのではなく、誰もがその言葉を受け止めた。そうして心の扉が少しでも開いたことを、みんなが喜びをもって迎え入れた。一番喜んだのは、きっと本人だろう。魔法が解けて、元の姿に戻っていく。そのエピソードのひとつひとつに、私は目頭が熱くなるのを感じた。
彼らは想像を絶する貧困、虐待、孤立を経験してきた。そして自分を守るために鎧(よろい)を身にまとい、あらゆることをその内に押し殺した。逆説的だが、だからこそ、この奇跡の授業が成り立ったのだと思う。私たちはといえば、無自覚の内に、まるで元からの皮膚のようにして鎧に身を固めている。これを解除するのはよほどたいへんだろう。でも、私たちにも留め金をはずして素肌に触れあうようなときがある。だから、なんとかこうして生きていられる。
◇
西日本出版社・1080円=4刷1万6千部。18年12月刊行。奈良少年刑務所は17年に閉鎖。「言葉の力が反響を呼び、介護職の人や教職員を中心に広まった」と内山正之社長。=朝日新聞2019年7月20日掲載