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山田詠美さん「つみびと」インタビュー 10人同じ考えなら、私は別の1人に

山田詠美さん=中村真理子撮影

2児放置死事件がモチーフ

 2010年6月、大阪市内のマンションで母に置き去りにされた幼い姉弟が餓死した。事件をモチーフにした山田詠美さんの長編小説『つみびと』(中央公論新社)が話題になっている。山田さんが実際の事件を下敷きにして小説を書いたのは初めて。何に突き動かされたのか。

 新聞連載中には東京や千葉でも悲惨な虐待事件が相次いでいた。なぜこの事件だったのか。

 「暴力を振るって子どもを死に至らしめるようなアグレッシブな虐待というより、なし崩し的にそうなってしまった、というどうにもならなさを感じた」。テレビのワイドショーを流し見ている中で「あれ、と思うときが1%ぐらいある」。今回がそう。「積み木がどこか一つ崩れたときに、自分が持っているものすべてがどうでもよくなる。日常生活をきちんと送ろうと思っているすぐそこに、地獄がある。それが私の中で普遍性を勝ち取ったのでしょう」

 1章は〈母・琴音〉という書き出しで、被告人となった蓮音の母であり、命を落とした子らの祖母の視点から始まる。琴音の元にやってきた記者は、虐待は連鎖するから、と責める。琴音は暴力的な父の元で育ち、継父から性的虐待を受けていた。母となった琴音は厳格な夫から逃れるように小学生だった娘・蓮音を置いて家を出た。物語は、飢えてゆく蓮音の4歳の長男、そして蓮音へと語り手を変えながら、事件に至るまでの日常を丹念に追う。

 「この人はバッシングしてもいいぞ、となるとみんなで一斉に『罪人』だと非難する。石を投げている人たちは、ものすごく気持ち良さそうな顔をしている」。小説はそれに逆行するもの、という。「子どもを愛さない人もいるし、愛せない自分が嫌になる人もいるでしょう。人の数だけ思いは違う。10人が同じ考えだったら、私は違う考えの11人目になりたい。それがすべての人を敵に回す考えだったとしても」

 母・琴音も、娘・蓮音も親に守られず育った。しかし、母は出会いに救われ、娘は「鬼母」と断罪された。2人の境遇はともに厳しい。分かれ道があったなら、助けを求めて手を伸ばそうとしたかどうか。

 事件をそのまま追いかけるなら、フィクションである必要はない。「わざわざ小説にしようと思った段階で、もう逸脱しているわけ」。執筆時に事実を取り扱う怖さはなかったという。「あったなら畏怖(いふ)です。たとえフィクションであっても、うそがないものを書こうと思っていた」

 小説家は現場に行かなくてもいい、ときっぱり。報道で何度も見ることになった被告の女と子どもたちの写真だけで「書ける」と思ったという。新聞や週刊誌の記事、ルポに目を通し、取材は刑務所だけ。「取材に行くのは、書くものを見つけるためではなく、書かなくてよいものを見つけるため」。かつて親交のあった作家、水上勉から「詠美はキッチンとベッドだけ書けばニューヨークの街が描けるね」と言われたそうだ。「確かに私は、ニューヨークに行ってもどこへも出かけずホテルで本を読んでいた。同行した編集者がやきもきするぐらい。でもそれで平気だったの」

 蓮音はブログの中でキラキラと輝く偽りの自分を見せていた。現実が過酷なとき、どこに逃げこむか。ネットで流れ消えてゆく物語より、本を読む方がいいのにね、と言う。「頭の中でイマジネーションを作り上げる訓練をしている方が、サバイバルに役立つ。本には実際に関わることのできない出会いもある。自分なりのアフォリズム(格言)を見つけていくと、楽になることがいっぱいあると思うんだ」(中村真理子)=朝日新聞2019年7月24日掲載