問題を鋭く捉え、解答を与えずに問題をどこまでも掘り下げる、これが古典である。本来ヴァージョンを識別するばかりで指示作用を持たない(ソシュール)、自然言語が適する。古典は既定値の了解を根底から砕いてきたものでもある。問題を新鮮に感知する姿勢で読もう。教訓を引き出したりするのは古典の最低の読み方である。ちなみに近代日本の最大の欠点はテクストをきちんと読むクリティック(精査)の訓練を欠くことである。テクストが何を問題としているかをシャープに感知することはクリティックの第一歩である。社会は言葉を通じて成り立っているのであるから、言葉についてのクリティックを欠いた社会は低レヴェルのままであり、訳も分からずに突進を繰り返し、やがては壊滅的に破綻(はたん)する。
替えきかぬ個人
森鷗外『山椒大夫』は、実力により引き裂かれた母子が汚い取引によって売られ過酷な隷従を強いられる話である。説経節が因果応報を以(もっ)てするのに対し、鷗外は安寿の透徹した見通しを高く掲げる。何を見通したか? ほとんど社会構造を、と答えて間違いないであろう。その見通しを、何物も動揺させることができない。厨子王もただそれに従うのみである。この安寿の境地を伝える輝く日本語は、作者によって陶冶(とうや)された、応報の情念に耐えて貫き通す鋼のような筆によって初めて実現した。絶体絶命の状況を貫き通すようにして脱出した厨子王は出世して山椒大夫に報復する機会を得るが、鷗外のヴァージョンは素晴らしいことに、厨子王に一味を許させ、人々は解放され、一味までもが「自由な経済」によって一層栄えるのである。鷗外は説経節の応報と人買いシステムが同根であることを見抜き、問題の遷延に他ならない、因果連鎖に沿って展開される安寿の予知(確率)にのみ脱出の可能性を見た。
デカルト『方法序説』は、問題を捉え掘り下げる、そのときにこれまでの最高の経験を参考にするか、いやそれともこの広い世界という書物を直接探求するか、と迷った著者が、いやどちらも当てにならない、確かなのはそうやって思考している(クリティックのクリティックをしている)限りの「私」のみである、いや、本当の問題はその「私」ではないか、という認識に辿(たど)り着く、までを(おそらくは架空の)「体験」として(これも透き通るように)語る、以下現にその超越的な「私」を探求する、作品である。問題は「私」のところへと無限に遷延される。替えの利かない個人が依拠を拒否して白く輝く嶺(みね)のように現れる。個人のアプリオリな価値を実現するクリティックの作用、その最もラディカルなヴァージョンの一つである。
越えてもまた壁
トゥキュディデスの『歴史』は歴史学の最高傑作である。「今度の戦争」=ペロポネソス戦争が致命的たるを予感し、聴き取りを史料として同時進行で書いていく。歴史(ヒストリーエー)とはどこまでもデータを厳密にチェックしていってなされる探求一般のことであるが、トゥキュディデスの真骨頂は、アテーナイのデモクラシーが変調をきたし戦争へと引きずり込まれるのは何故(なぜ)かと問題を深く追究し、或(あ)る精神構造が鉄の法則として覆っていることを抉(えぐ)り出した、点に存する。この法則は個々の作戦行動から政治過程に至る全ての局面を貫き、同盟諸国やスパルタなど敵対連合をさえも巻き込んでいく。これが凍るような冷たい筆致で描かれる。ヴァッラやホッブズ以来数々の名訳でもしかし再現しえない、文法的破綻をさえいとわないかと思わせる、アイロニカルな立体構造の文体で表現され、今日でも研究者は読解に苦労している。
それでも、これは答への到着ではなく遷延の一形式である。デモクラシーを真に考えるゆえにこそその病理を執拗(しつよう)に解明しようとする、その執念をしかし事実の再構成=データによる基礎付けという方面に収斂(しゅうれん)させる、鉄の法則はその時に航跡のように現れるにすぎず、読者にとっては越えても越えてもまた現れる壁、(デモクラシーのチャンピオンたるオイディプースにとっての)スフィンクスの謎、を意味する。=朝日新聞2019年8月17日掲載