母親から渡されたノートパソコン、それが始まり(ナブナ)
n-buna(以下、ナブナ):インターネットに最初に触れたのっていつだったか覚えてます? 僕は中学2、3年くらいでした。
三秋縋(以下、三秋):それからすぐにボカロを始めたってことですか?
ナブナ:そうですね。それまでは自我がなかったんで(笑)。地元が岐阜なんですけど、岐阜の山の中をただほんとになにも考えずに駆け回って学校に行くような学生で、だからこそ三秋さんの原風景の描き方が刺さるんですよね。ある日、母親から文明の利器を渡されたんです。そのノートパソコンを使って、曲の作り方やフリーソフトを調べて。それが始まりですね。
三秋:すごいですね。僕なんかひどく散漫な触り方しかしていませんでした。出会ったのは小5、6くらいなんですけれども、個人サイトを渡り歩いたりするくらいで。
suis(以下、スイ):私は小6、中1くらいのときでしたね。年の離れた兄の影響で、ニコニコでボカロがはやる前のオタク文化みたいなものを見て楽しんでました。メイコとかカイトとか、ミクちゃんの前のボーカロイドが盛り上がっていましたね。表現欲求みたいなものが私の中にはなかったので、あるものをただおもしろいって言って見てまわるような感じではありました。
ナブナ:ネットエリートだなあ! この時代においては、インターネットが我々を形成したといっても過言ではないんでしょうね。
僕は作品至上主義者、作品だけを目の前に出したい(ナブナ)
三秋:ヨルシカさんの曲を聴いてるとき、ボーカルの存在をまったく意識しないんですよ。というのもあまりにも声が曲になじんでいるから、作曲者自身が歌っているような錯覚に陥るんですよね。
ナブナ:それ一番いいかたちですね。僕は作品至上主義者なので、作品だけを目の前に出したいんですよ。小説家さんの前でこれを言うのもなんですけど、作品のあとがきを読まないタイプで。その作者の情報を完全にシャットアウトして、その作品だけを見たい。だからこそヨルシカという作品だけが世に出回って、いろんな評価を受けたらいいなって思ってるんですよね。理想としては美術館でふと目にした絵に心打たれるとか、ラジオでふと流れてきたメロディーに心奪われるとか、そういうものになりたいです。
三秋:Travisのフラン・ヒーリィさんも同じことおっしゃってましたよね。僕も完全に同意見で、だからあまり素性を明かしたくないんです。それに小説って、一度作者の顔を知ってしまうと、一人称で語られてる時に作者の顔がそのまま主人公に重なってしまうことがある。それってすごく不幸なことだなと。そもそも、基本的にクリエイターっていうのは、作品を超えられないものだと思うんですよ。その人の美点を結集したのが作品なわけですから。作品を作家が超えるようなことがあったら、それは作品が十全に機能していない証です。にもかかわらず、聴き手や読者は、作家やミュージシャンその人に関心を持ってしまうものなんですよね。どうでもいいだろうと僕は思うんですけど。
スイ:「赤ちゃんはどこからくるの?」みたいな気持ちなのかもしれないですね。幻想であるってことが一般的に知れ渡ってもらえると、作り手側としてはプレッシャーの面でも助かりますよね。すごくきれいなものでイメージされてるんだろうなっていうのは常日頃感じます。
三秋:ものを作らない人からすれば、これだけすごいものを抽出できる人はさぞすごい人に違いないって捉えてしまうんでしょうけど、僕たちは上澄みの部分だけをすくって差し出してるだけで、その下はひどいもんなんですよね。
CDの発売日にタワレコに行くってすごく健康的なこと(三秋)
三秋:ヨルシカの2枚のアルバムにはそれぞれテキストが付いていて、かなりの分量ですよね。
ナブナ:むしろあれひとつで作品として出したいっていうのがあって。現代って音楽だけじゃなくて、ほんといろいろサブスクの時代じゃないですか。CDとして物を出すことの価値ってだんだん下がってきてる時代にはあると思うんですよ。CDとしての価値はなんなのかって考えた時に、僕が選んだ方法として、物語の中の一装置としてCDがあって音楽があると。今回の「エルマ」というアルバムでいえば、エルマが旅をして日記帳に詩を書いていくうえで、書き溜めた音楽をそのままCDに収録しているっていう。そういうひとつのアナログな形としての提示がしたかった。日記帳を持って、読みながら音楽を聴くってことは、配信ではできないことだから。三秋さんはCD派ですか? サブスク派?
三秋:基本的に音楽はちゃんと自分のものにしたいタイプなので、CDで買ったりアマゾンでMP3ダウンロードしたり。もはや二段階購入になっちゃってるんですよね。まずは電子版で買って聴いたり読んだりして、気に入ったら現物を買う。半額の体験版を買ってる感覚です。
ナブナ:僕も本当に手元に置いておきたいCD以外は、配信で買ったりサブスクで聴いたりですね。CDがコレクターズアイテムになってるからこそ、それ自体に価値があることが大事だなと思います。小説もいまだに書店で買うか取り寄せる派ですね。
スイ:私も書店派ですね。三秋さんの本も書店に探しに行ったんですけど、自分では見つけられなくて、店員さんに聞いて、ようやく見つかった時の喜びがすごかったです(笑)。
ナブナ:それを喜びととらえられる人間と、時間の無駄だととらえる人間がいるよね(笑)。「絶対にどんな本でもあります!」みたいな施設が都心にドーンとできたらいいんだけど。
三秋:書店に行っても欲しい本が置いてないことが最近すごく多くて。僕自身の趣味の変化もあるのかもしれませんが、書店で本を買えない時代になってしまっているように感じます。国会図書館みたいな書店があればいいんですけどね。
スイ:いまはアマゾンの倉庫が一番それに近いですよね。
三秋:たとえば、CDの発売日当日にタワーレコードに行くってすごく健康的なことだと思うんですよ。ひとつの儀式というか、お店に行ってCDを買ってその店の袋をぶら下げて帰る、この一連の過程も音楽体験の一つじゃないですか。レコードの時代の人から言わせれば、さらにそこからレコード盤を取り出して、拭いて、針乗せて聴く、そこまでを含めての音楽だったと思うんですけど。音楽を聴くことが手軽になった分、生活における存在感が希薄になってきてるというか、聞き流すものになってしまってる感じがあると思うんですよね。
僕の子供の頃って、CDを買ったらその1枚を何度も繰り返し聴くような時代だったんです。好きな曲だけ聴いていたらあっという間に飽きてしまうし、かといってその都度CDを買い足していたらきりがないから、自分の好みとは異なる傾向の曲も聴いていかざるを得ない。そういう異物とも対峙せざるを得ない環境がリスナーの教養を深めていたと思うんです。それがなくなったいま、聴き手がどんどんイージーな方向に流れていっちゃうんじゃないかなって危惧はありますね。音楽体験の方に話を戻すと、音楽に限らず、昨今あらゆるものから実感が失われているので、その反動で今後はよりアナログ的な風潮が強まってくと思います。たとえばいまインスタントカメラやレコードがはやってますけど、そんな風に、テクノロジーが奪っていった実感を取り戻すために、皆が進んで不便なツールを使い始めるんじゃないかなって。
ナブナ:アナログの楽しみ方ですよね、わかるな~。米津(玄師)さんもこないだ話したら、ビリー・アイリッシュのアナログ盤買ったって言ってました(笑)。僕も家にレコードプレーヤーありますけど、実際に手間をかけて音楽を聴くのが楽しいっていうのはもちろん、だんだん音質が劣化するじゃないですか。それが逆に生活になじんで心地いいんですよね。
手紙いいな、はやらないかな(スイ)
スイ:アナログの手間のよさでいえば、ツイッターの言葉ってやっぱりどこか軽いので、ツイッターで言いたいことを全部手紙で書いて誰かに送って。手紙いいな、はやらないかなってすごい思ってます。
三秋:僕、メールってものが大嫌いで。日々の電子的やりとりが手紙に置き換わればいいのにって常々思ってます。送信から2、3日経ってから届いてほしいし、受信から2、3日経ってから返してほしい。郵便箱を確認するのは一日に一度だけ、手紙を書くのは書き物机の前だけ、返事が来るまではそのことを忘れて過ごす。そういう余裕があったほうが言葉をよく咀嚼できると思うんです。
スイ:せこせこするのすごい嫌ですよね。便箋にペンで落とした言葉って軽くならない気がするなあ。
三秋:自分の肉体の延長線上に文字があるっていう状態が大事だと思うんです。その言葉が自分から出力されている実感があると、不正確な叙述や大雑把な表現が許せなくなる。僕は日記を書くのも好きなんですけど、みんな何でもかんでもSNSに書くんじゃなくて、日記に書けばいいのになって思ってます。自分の身に起きたことを文章にする場合、書き方によってその経験の意味づけが変わっちゃうんですよ。イージーなかたちで吐き出すと、イージーなかたちで記憶される。様々な角度から厳密に検討したあとで書き起こせば、混乱した現実に何かしらの意味や意義を与えることができると思うんです。脊髄反射的に出力しちゃうのはもったいないなって。
ナブナ:すごい好きだった子にふられたっていうのをツイッターで書くのと、同じことを日記にめっちゃ書いてるのと、重みがぱっと見違うっていうね。とはいえ電子化の時代って、悪いことばかりでもないなって思うんですよね。iPhoneで曲も絵も動画もなんでも作れる時代、サブスクとアナログは両立させることもできるし、片方だけを知って世界のすべてを知った気になるのはあまりにももったいない!
なにかを作りたいと思っている人へ、3人からメッセージ
ナブナ:創作を志す若い人たちに対して、「もの作るってどういうことか?」というお題が出ているので、ひとりずつ答えていきましょうか。
スイ:社会に抱えてる鬱屈した気持ちだったり恋の熱量だったり、そういう自分のなかの大きなエネルギーみたいなものって、外に出さないと満杯になって割れるじゃないですか。自分が壊れないように出すのもそうなんですけど、やらないと死ぬからやってるのかなっていう気もしてて。生活のお金を稼ぐためにってことではなく、生きるために、自分の精神と肉体を維持させるための方法として表現をするってことなのかなって思うんですけど。ナブナくんは音楽、三秋さんは小説を選んだように、そのとき一番しっくりくるものがあれば、自然と勝手になにか作っちゃうと思うんです。本能という創作ロボットになるというか。ヨルシカだったらナブナくんが監督で私が登場人物を演じる俳優のように、自分の思想を表現するのではなくて、彼の思想を表現する手法を人生で選びました。そうやって人の思想の手伝いをするのもありなんだなって、いまはやってみて思っています。
ナブナ:作りたくなったら作りたいものを作ればいいって思ってますね。僕が常々思ってるのは人間の幸せの在り方についてなんですけど、自分は音楽という手段によって幸せを追求してるわけなんですよね。自分が満たされるために音楽を使ってて、それと同じものを見つけたらいいんじゃないかな。創作に限らず、犬の散歩でも筋トレでも、そこに幸せが見つけられるならそれでいいと思います。僕は僕で満たされることに必死なんで、みんなもそれぞれで満たされてくださいって感じです。人生、一番最後にみんな死ぬじゃないですか。どうせ死ぬから、そのときまでになにをやっとくか、どうやって自分が満足して人生終えられるかだなってめちゃくちゃ思いますね。
三秋:勝手にやって、勝手に幸せになってくれって感じですね。物語っていうのはこの理不尽な現実や世界を受け入れたり肯定したりするための、ある程度筋の通った、でたらめな仮説だと思うんです。世界がこういう場所であってほしいという、一種の祈りのようなものですね。僕は自分自身が書いた作品を通して、結果的に人生をやり過ごしやすくなったり、受け入れやすくなったりすれば、それで十分なんです。このように僕は自分を救うために書いてるので、皆さんもそれぞれ好きに書いて自分を救ってください。