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ヨルシカ「盗作」書評 オルゴールの外側へ(作家・三秋縋)

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三秋縋さん書評「オルゴールの外側へ」

 海外の小説を読んでいると、あの献辞というやつがやたら目に付く。「私を支え続けてくれた誰それに捧げる」「誰それにたっぷりの愛を込めて」みたいなあれだ。

 僕が献辞を捧げるとしたら相手は誰になるだろうか、と時々考える。多分それは他ならぬ自分自身になってしまうのではないか。「僕を支えてくれた僕の両足へ」とか、そんなところだ。僕は誰かのために本を書いたりしないし、罪のない誰かを僕の情けない本の共犯者に仕立て上げたりもしない。そして何より、僕は自分自身を楽しませるためにものを書いている。八割くらいまでは。残りの二割は生活のためだ。日によってこの割合は大きく変わる。自分のためにものを書き続けるのもそれはそれで疲れるからだ。何せ彼は常に自身の限界の先にあるものを要求してくる。生活のために書く方がよほど楽だと感じる。

 自己破滅へと向かっていく『盗作』の主人公はその動機を以下のように語る。”俺にも欲しい。初めて自分の意思で、自分の価値観で作る創作物が。主張を伴った心で見る景色が。誰も表現したことのない、オリジナルの創作物が”。

 自分の価値観でものをつくること、オリジナルのものをつくること。自分のためにものを作り続けているとわかるのだが、この二つの動機はよく似ているようで案外似ていない。他者におもねらなければ独創的な作品が出来上がると思ったら大間違いで、自身の要求に100%応えようとした結果、呆れるくらい平凡なラブソングが生まれるようなことはめずらしくない。

 人の夢や美的感覚といったものには実のところ大してバリエーションがない。それぞれに異なる不完全さがあるだけだ。増して本作の主人公のように大衆の好みに合わせた音楽を器用に奏でられる人間が、その二つの動機を同時に満たしうるほどの異形の精神を持っているとは考えにくい。すると必然的に音楽という形式の外に踏み出すことになる。そして破滅の美への志向は少年の破壊行為への共感を通じて予め示されていた。彼は破滅するべくして破滅したのだ。エイミーが自身をエルマただ一人にとっての芸術そのものとすることでしか自身の目的を達せなかったように。

 音楽と小説の相互補完的な関係を、僕は手放しで歓迎することはできない。他の形式に向かって開かれた創作物はそれゆえに単体で完結する閉じた創作物よりも強度で劣る、というのが僕の持論だ。用途の多い道具ほど構造的に脆くなる。僕はそれがたった一つの曲しか奏でられない手のひらに載るオルゴールのようなものであってほしいと願っている。だが、それでも自分自身の枠組みを超えた何かを見たいと思ってしまったとき、僕らはオルゴールの箱を壊さざるを得ないのかもしれない。