ブギーポップの話をしよう。
僕が『ブギーポップは笑わない』と出会ったのは、十代の半ば頃のことだ。
今でこそ小説家という仕事をしているけれど、僕自身、幼かった頃はそれほど読書家だったというわけではない。両親はほとんど小説というものとは無縁で、姉が読んでいる本といえば漫画くらいなものだった。僕は家の本棚に小説なんて一冊も刺さっていないような家庭で育ったのだ。小学校の図書室なども利用した記憶はほとんどなく、それだけに、僕の読書の導入は小学校高学年くらいからアニメに影響されて手に取り始めたライトノベルだった。
当時のライトノベルはファンタジー作品が主流だったように思う。僕らの住んでいる世界とはまったく違う異世界を舞台にした冒険譚に心躍らされ、魅力的でユニークなキャラクター達の活劇に夢中となってページを捲っていたように思う。その頃の、幼かった僕が読書に抱いていた印象は、そういったものだった。つまり、純然たるエンターテイメントだ。読書とは、キャラクターの活躍に笑ったり、ドキドキハラハラしたりするものなのだと、そう思い込んでいた。
だが、そんなときに現れた、『ブギーポップは笑わない』は、まるで電撃に撃たれるような読書体験を僕にもたらした。
ブギーポップとは、とある奇怪な人物の名前だ。黒い帽子に黒いマント姿。普段はごく普通の女子高生の身体の内に眠っているが、世界の危機を察知すると浮かび上がってきて、〈世界の敵〉と戦う。
「君たちは、泣いている人を見ても何とも思わないのかね!」
これは、物語の冒頭でブギーポップが発するセリフの一部だ。この言葉は、僕にとっての最初の電撃だった。僕の感受性を刺激し、「この小説はなにかが違う」と思わせた切っ掛けとなった言葉だったように思う。そのときの僕は、ちょうど思い知っていたのだ。僕らは泣いている人を見てもなにもできない。見て見ぬふりをするのがせいぜいで、なにか言葉をかけるなんてもってのほかだ。それがまったくの他人相手ならば、尚更だろう。少年だった僕は、その無力感に打ちひしがれていた。
この小説は、まるで自分が考えていることを見透かしているみたいに、次から次へと心を揺さぶっていくのだ。
推理小説のように謎めいた話の構造や、最終話で回収されていく伏線の数々には、とても仰天したものだ。だが、もっとも印象深かったのは、等身大の高校生たちが抱える悩みや不安と、青春の中にあるその閉塞感の描写だった。
あのとき、僕たちは『世界』と戦っていたのだ。
僕たちの感じているそのままの世界が、そこに描き出されている――。
僕は本当に驚いた。こんなにも感情を揺さぶられる経験は、それまでしたことがなかったように思う。
単なるエンターテイメントとは少し違う。
心を動かされ、読み終えたあとにも、ほんのかすかな『何か』が胸に残り続けていく。
登場人物の中に自分自身を見出すことができて、自分は一人ではないのだと気付かされる……。
これが読書というものなのか。
そうだとするならば。
僕も、小説を書いてみたい。
この作品がなければ、僕は小説家になっていたかどうかはわからない。
僕たちの世代の作家の中には、『ブギーポップ』を切っ掛けに小説を書き出した人たちも多いように思う。
『ブギーポップ』の作中には、少年少女の心に多大な影響を与えたとされる、作家のキャラクターが存在するのだが、僕たちにとって、それは上遠野浩平という作家と重なる部分がある。『ブギーポップ』がなければ生まれなかった作品は数多いだろう。直接にせよ間接的にせよ、『ブギーポップ』があったから、救われた少年少女たちの数は決して少なくないはずだ。
『ブギーポップ』は僕の青春を救ってくれた。
そうして生まれた僕という作家の本を読んで、救われたと言ってくれる読者がいることに、僕はすごく感謝している。