過去はあったもの、今はあるもの、未来はこれからあるもので、冷蔵庫の葱(ねぎ)が三日ぶん萎(しな)びると、街路では銀杏(いちょう)が三日ぶん色づく。あらゆるものは同じ時間を、同じ速度、同じ向きでチクタクと歩んでいるからこそ、遅刻は遅刻として断じられる。
しかしすでにアインシュタインによってこの常識は覆されている。例えば、「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」。時間の速さは相対的なものらしい。しかし時間の向きについてはどうだろうか。
いちど紅茶に混ぜたミルクを取り出したり、灰を薪に戻したりできないように、宇宙のあらゆるものは少しずつ輪郭を失い、混ざり合ってゆく。時間の向きとは、この熱力学の法則によってのみ基礎づけられるものだという。月のクレーターから新聞の文字まで、すべて運動が熱に変換されたことによって生まれた痕跡であり、この痕跡だけが、ある特定の過去があったことを教える。しかしそれも毎瞬間、茹(ゆ)で過ぎたじゃが芋のように輪郭を失いつつある。
本書の白眉(はくび)は、時間の速さが場所によって異なるように、この絶対的なものとしか思えない時間の向きでさえ相対的であることを暴くことにある。
しかしこうした最先端の物理学の成果を紹介する本書が多くの読者を惹(ひ)きつけている理由は、その内容のラディカルさだけではないだろう。古今東西の科学者、哲学者、詩人を引き、歴史的逸話や個人的な体験談、そして数式を用いずに理論の内実を説明する例え話を交えた多面的な叙述こそが、この本の圧倒的な面白さを支えている。科学に関する一般書には古典とさえ呼べるようなものもあるが、本書にはその列に加えられるべき文学的な達成がある。
著者にとって文学や哲学は説明の道具であるだけでなく、発想の源なのだろう。本書には文系/理系という安易な分割を越えた知性が、というより、理系にしか引き出せない文系の魅力が刻まれている。
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冨永星訳、NHK出版・2200円=5刷2万2千部。8月刊行。著者はイタリア出身の理論物理学者。35カ国で刊行決定。