高校まで野球をしていた。神奈川県の桐蔭学園というところで、在学中に甲子園に二度出るような当時は「超」のつく名門校で野球をやっていた。
野球部は全寮制だった。朝六時二十分に起床し、二十三時に就寝するまで。将来プロの選手になるべく、ひたすら野球のことばかり考えていた……ということは当然ないが、高校野球の選手だった当時の僕に本を読むという習慣はおろか、その発想さえなかった。
それは僕だけに限らず、あの頃、誰かが寮で小説でも開いていようものなら、何事かと騒然となったに違いない。大阪桐蔭時代の根尾(昂)くんがかなりの読書家だったという話を聞けば意識の違いを突きつけられる気持ちになるが、少なくとも野球をしていた当時の僕は読書というものからかけ離れた生活を送っていた。
中学で一冊、高校でもわずか一冊。もっとも多感な青春時代の六年間に、僕が読んだ本は二冊だけだ。
むろん、そのことを肯定する気はないし、開き直るつもりもない。巡り巡って小説家となったいまはそのことが強烈なコンプレックスだし、それは十年やそこら書いてきたことくらいじゃ解消されない。あの時期に本を読まなかったことにいつか足をすくわれるのではないという不安は尽きない。
でも、だからこそ……。その六年で読んだ二冊は鮮烈に記憶に残っている。
中学時代の一冊は、西村京太郎さんの『十和田南へ殺意の旅』だ。何気なく足を運んだ学校の図書室で、自分でも名前を知っている作家なのだから……といった理由で借りた本だったが、十津川警部の名推理に胸が躍った。
高校時代の一冊は、あるOBに勧められたものだった。大学で野球を続けていたその先輩のことが僕は好きだった。その好きな先輩が、遊びに来ていた寮の空き部屋で一人で本を読んでいた。
前記した通り、野球選手と読書が結びついていなかった僕は、臆面もなく「なんで本なんて読んでるんですか?」と質問した。「なんて」という一言に先輩が苦々しい笑みを浮かべていたのが印象的だった。
「お前も一生野球をしていられるわけじゃないんだから、本くらい読んでおけよ」
そう言って先輩がくれたのが、沢木耕太郎さんの『テロルの決算』だった。
内容について多くを記そうと思わない。大切なのは、あの先輩が勧めてきたものだったから僕はがんばって読もうとして、その一冊が劇的に人生を変えたということだ。
愛国主義者の少年と、社会党の書記長を巡るノンフィクションだ。いま読んでも決して簡単な本とは思わない。読書から縁遠かった当時の僕にはなおさらだろう。
きっとはじめは先輩に褒められたい一心だったと思う。でも、気づいたときには僕は無我夢中で活字を追いかけていたし、読破していた。
なかば興奮状態で一気に読み切った朝、やけにクリアな頭で思ったのは「文章ってすごい」ということだった。当時の僕と同じ十七歳で世を憂えた山口二矢(おとや)に対するひそやかなエンパシーは抱いていたが、それよりも目に映る世界を一変させる文章の力に驚いた。僕がいま小説家をしている大いなる原体験だ。
本は誰が勧めるかが肝心だという持論が僕にはある。べつに自分の本じゃなくていい。でも、勧めた本を若い子が読みたくなるような魅力的な大人でありたいとは思っている。