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○○の人 二宮由紀子

 スターバックスでも淀(よど)みなく注文できるまでには一定の慣れが必要ですが、今は昔、学生時代の京都での話。

 友人はその店を朝食に愛用していました。コーヒーが美味(おい)しいし、道場系珈琲(コーヒー)店と違って店は広く明るく、サンドイッチ類も充実している。シャイで寡黙な彼はいつも少し緊張しながら「ミディアムロースト・キリマンジャロのホットコーヒーとエッグトーストサンドを」と言った後は、ひとり静かに本を読む朝の時間を楽しんでいた。

 その日も「ミディアムロースト・キリマンジャロのホットコーヒーとエッグトーストサンドを」と告げて、読みかけの文庫本のページを開こうとしたその時である。店員さんが厨房(ちゅうぼう)に伝える声が彼の耳に届いた。「いつもの」

 知らないうちに自分は「ミディアムロースト・キリマンジャロのホットコーヒーとエッグトーストサンドの人」として店全体で認識されていたのである。彼は恥ずかしく、でも自分で「いつもの」なんて言うのはもっと恥ずかしいので、その後もずっと「ミディアムロースト・キリマンジャロのホットコーヒーとエッグトーストサンドを」ときちんと言い続けたとのことです。

 次もやはり京都での別な友人の話ですが、餃子(ギョーザ)が美味しいので有名な店があった。客は皆カウンターに座るや、一様に炒飯(チャーハン)と餃子を頼む。友人もそのつもりで初訪店したのだが、壁を見ると「エンザーキー」の文字があり、ふと心が動いて「炒飯とエンザーキー」と頼んでしまった。次に行ったとき、彼が「炒飯と餃子」と頼むと、店主はニコッとして「違う、あんたはエンザーキーや」。以来、何度行っても「あんたはエンザーキーな」。もう店に入ったとたん黙って鶏を揚げられるほど「エンザーキーの人」として愛された彼は、ついに一度しか有名な餃子を食べさせてもらえないまま、大学・大学院を卒業した。

 というのも、当時の学生街の店はどこも暴力的に量が多かったからですが、近所の別な中華料理店の方は少しハードルが低くて、お料理をシェアする小皿がもらえ、テーブル席中心だったので、私も何度か行ったことがあります。巨人のような雲突く長身の男性店主が笑顔も見せず、てきぱきと店を指揮していたものの、人気店だけに満席のことも多かった。それで2階の鉄板焼店に初めて行った時のこと。

 店内は静かなジャズが流れ、テーブルには洒落(しゃれ)た黒の大皿がセットされている。お料理も美味しく、ビールのお代わりを頼もうと振り返ったら、あの巨人がいた。あ、この店も同じ経営なんだ……と思うより早く、巨人は私を見下ろして言った。「小皿ですか?」

 私は「小皿の人」として認識されていたのである。=朝日新聞2020年3月14日掲載