東京五輪・パラリンピックの開催が2013年に決まったのが執筆のきっかけだった。「1964年の東京五輪と同時に開かれたパラリンピックはどういうものだったのか。気になって調べ始めたんです」
23歳で戦死した詩人・竹内浩三の生涯に迫った『ぼくもいくさに征(ゆ)くのだけれど』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。以来、幅広い好奇心を作品に結実させてきた。今回のテーマは資料が少なく、当時の新聞記事を読むことから始まった。大会で通訳を担った「語学奉仕団」や、選手団長を務めた中村裕(ゆたか)医師、出場者らの取材は5年に及んだ。
64年大会は22カ国から369人が参加した。「大きな会社の運動会ほどの規模でしたが、コペルニクス的転回をもたらされた日本の選手もいた」という。障害者スポーツやリハビリテーションという言葉が一般的でなかった時代。脊髄(せきずい)損傷の人たちは療養所や病院でひっそりと暮らし、パラリンピック出場を持ちかけられると、「恥ずかしい」。ところが会場には、とにかく明るい外国人選手の姿があった。仕事に家庭、車の運転……。健常者と変わらぬ生活を送っていると知った。「外国人選手を通して、自分たちを取り巻く課題に気づいた瞬間でした」。そして社会復帰をめざして前を向く。
真骨頂は、70~80代になった4人の出場者へのインタビューだ。「戦後の障害者の自立を体現してきた方々の証言。話を聞いた者の責任として、しっかり伝えなければ、と」。一人語りにして、大会への理解も助ける構成に気を配った。
来年開かれる予定の東京パラリンピックには、どんな意義が?
「50年余りでインフラや雇用など障害者をめぐる環境は整備されてきた。でも『心』の部分ではどうでしょう。問われ続けていると思います」(文・吉川一樹 写真・藤岡雅樹)=朝日新聞2020年4月25日掲載