【坊城俊樹 入選5句】
修司忌の苦き丸薬噛みつぶす 樺野午睡
シロナガスクジラ見上ぐる遠足子 丹下京子
遠足の帰途に紛れる天狗の子 ドラ座衛門
遠足やバミューダ海域でおやつ 潤目の鰯
遠足や棒を拾へばみな男子 古田秀
坊城:「シロナガスクジラ見上ぐる遠足子」のクジラは、真っ白でものすごいでっかい雲のことじゃないかなと思った。春の雲のやわらかさもありますよね。「遠足や棒を拾へばみな男子」の「男子」は、「おのこ」って読むのがいいと思います。先生とか教頭先生も棒を拾ったりして、男の子に戻っちゃう。「おのこ」って読ませたら女の先生だっていいんですよね。
「修司忌の苦き丸薬噛みつぶす」は寺山修司のどうしようもない哲学、人間性の感じが出ますよね。若い時の寺山は特に反社会的な葛藤もあったりして、そんな忌日の丸薬は嚙みつぶさざるを得ないだろう、っていう感じがしました。
【村上健志 入選5句】
春の日や餃子に丸くごま油 冬木ささめ
うらうらとリードの鈴と睾丸と 岩のじZ
遠足を見て遠足に見られゐる ゆっ子
遠足の補助席にゐる知らぬ人 探花
コンパスの丸の未完や花過ぎて 高橋無垢
村上:「遠足の補助席にゐる知らぬ人」は、坊城さんが取った「遠足の帰途に紛れる天狗の子」みたいにファンタジーとして読んでもおもしろいし、遠足ってたまに目的地に着いて、駐車場の停めるところまで案内する時に、一瞬バスに入ってくる人とかいるな、っていうのを思い出しました。
坊城:怖いよね、これは。すごいシュールな感じがあって。補助席にいる、っていうのがいいですよね。かしこまってる感じがして、「千と千尋」に出てきそうなさ。
村上:「遠足を見て遠足に見られゐる」は、遠足って見ちゃうものじゃないですか。それは分かるんですけど、逆に言うと遠足の人たちもこっちを見てるな、っていう感覚がなるほどと思ったんですよ。そのあるあるを描写できてるのがいいなと思いました。
坊城:こういう句はあんまり見たことがないですね。「コンパスの丸の未完や花過ぎて」もおもしろくないですか? でも意味が分からないんだよ。
村上:ぱっと見、すごいよかったんですよ。でも「コンパスの丸の未完」っていうのは、コンパスを書いてる途中でやめたのか、コンパスって意外ときれいに書けなくて、最後の接地面がずれることを言ってるのか、どっちなのかなって。
坊城:これは作れなかった方だと思うな。子どもたちって、最初はうまくできないじゃないですか。最後の方にくにゃくにゃっとなったりするでしょう。「花過ぎ」っていうのも時間の経過としていうと、小学生が入学して、それこそ4月末くらいの算数の授業でコンパスの丸の最後ができない。そういう感じなのかなと思いましたね。
いよいよ特選の発表です
【坊城俊樹 特選】
マンボウの眼に遠足の子等の影 藤色葉菜
坊城:マンボウが好きでしてね、私。マンボウの目ってすごく独特なんです。特別なんですよね。当たり前なんですけれどまぶたがない、まんまるの玉みたいな目に、遠足で来た子どもたちの影が映っている。水槽のガラスでセパレートされているマンボウと人間の子どもたちがいて、その間の景色というのはすごく不思議で、三次元みたいな感じがあって、物語みたいなものも出てきていると思うんですね。
マンボウって、やっぱり外に出たいと思うんです。南の方の、ものすごい大海にいそうじゃないですか。それなのに閉じ込められている感じと、子どもたちがキャーキャー騒いでいる感じの取り合わせに惹かれました。
【村上健志 特選】
地球儀の丸き埃や四月尽 登りびと
球根を植ゑて残れる手の丸み 彼方ひらく
(発表当日になっても村上さんの選が絞りきれていません)
村上:感覚的には「地球儀」がいいんですけど、季語が「四月尽」なのかな、っていう気がしていて。季語が動く(=ほかの季語でも成立する)かもと思ってしまって。
坊城:いや、どっちでもいいんじゃない? そんなに動くとも思わないし。
村上:地球儀は偶然、「地球儀の並ぶ四月の本屋かな」って俳句を作ってたんです。本屋に行った時に、新学期って意外と教材とか並んでて、地球儀が売ってたからおもしろいなと思ってた時に、この句が出てきたから「あー」と思って。地球儀のある喜びが4月とつながるのはいいんですけど、埃がたまってしまっていることが春の終わりと結びつくか、というとどこまでかな?とは思ったんですけれど、でもおもしろいなと思いました。
坊城:いま理屈で考えただけですけど、それこそ地球儀の教材みたいなものがあって、普通に4月から学校があれば使ってるのに、それが4月の終わる頃までほっとかれている感じ、っていうんですかね・・・・・・。
村上:あー、なるほど! ほっとかれている感じが確かに! そう聞くと「四月尽」がむちゃくちゃいいですね。僕の中では新学期に埃がたまるって早すぎない?と思ったんですけど、それでも地球儀に埃がたまってしまっているっていうのが春が終わるかなしさと結びつくと思ったら、すごく良く思えてきた。
坊城:初夏になると青い光とか黄金色の光が見えてくるんだけれども、四月尽がちょうど中途半端なんですよね。1~2週間前の4月の終わりの感じっていうのは、何かと世の中が動いてないせいもあるんだけれども、今までよりもちょっと寂しかった感じがありましたよね。
村上:話してるとこっちの方がよくなってきたんですけど、「球根を植ゑて残れる手の丸み」の方は、一読して想像した時に「確かに!」と思ったんです。球根を植える時に、確かに手を丸くして植えて、植え終わっても意外とその感触って手に残ってるな、って思ったんです。自分が今まで知ってたであろうことが発見できた、っていうおもしろさがすごいあって。球根を植えることの描写しかしてないんですけど、土の感じとかいろんなものが見える。シンプルな言い方でイメージできるのがすごいな、と思いました。どっちもいいんだよな・・・・・・本当に。
坊城:特選二つにすればいいじゃないですか。
村上:そうします!
今回集まった句の印象、選句のポイントは?
村上:僕は自分が「丸」って題を出したから、丸の方を重点的に見ちゃったんですよ(笑)。
坊城:私は「遠足」を出したから遠足なんです。村上さん、ふだん拝見していますけれどもお上手ですし、今日はつまんない句を取るとやられるかなと思って、飛躍のある句を選びました(笑)。遠足っていうとふつう、かわいらしい行列じゃないですか。これでもって当たり前のように作るのはあんまりおもしろくないから、飛躍があって、でもどっかで写実ができてる句がいいかなと思ったんですね。
村上:僕も1回目に読んだ時は「丸をこういう使い方するんだ」とか、「遠足のそういうところをとらえてくるんだ」ってところでピックアップしちゃいましたね。
坊城:「丸」と「遠足」ですから、頭で考えて想像で作ると類想だらけになるんですよ。遠足ならしんがりが遅れて、おにぎりが出てきて、男の子と女の子のいさかいが起きるのがパターン。どうしても予定調和で、ハッピーになるので、少し気持ちの悪いものも欲しかったですね。
――坊城さんは多いときで月に1万句見ることもあるそうですが、選句のコツってどんなところでしょうか?
坊城:NHK全国俳句大会とかだと、自由題だけで6000~7000句来るんですよ。題詠が3000句くらい。それでも何万句の中から予選選者が選んでいる。そうなると、句がある程度うまい。その中でさぁ、あと何十句取りましょう、特選を二つか三つ取りましょう、っていうと壮絶に分からないですよね(笑)。だからやっぱり、類句、類想があるとはじかざるを得ない。俳句は世界最短の詩なのでしょうがないですし、宿命なんだけれども、なるべくそうじゃないやつを取るわけです。
村上:今回みたいに「丸を使う大会」「遠足を使う大会」になると、オリジナリティはどうしても大事になりますよね。この人の句は超きれいだけど、この大会では1人じゃないんだよな、っていうのはあるなって思いました。
坊城:日本人だから好きなものは大体似てるわけ(笑)。きれいなもの、かわいいもの、おいしいもの、みんなそうなんですよ。だからそれがあんまりきれいに調ってる句は気を付けた方がいい。ちょっと破綻してても好みだ、っていう方が危なくはないと思います。
コロナ禍、自粛生活の中で俳句の意味とは?
坊城:最近、「コロナ禍」ってみんな書くんですよ。あれだけでうんざりしちゃう。
村上:コロナで俳句だとむずかしいですよね。コロナを振りにした気づきはいいと思うんですけど。コロナって入れないで、写実的な悲しみや恐ろしさっていうものが出てるといいなと思いますね。
坊城:それこそ高浜虚子は、昔コレラがはやったとき、コレラの句はあえて作らなかったですね。戦争もそうでした。太平洋戦争の頃もずっと俳句を作っていたけれども、虚子はふつうに「桜が咲いた」なんてやってましたから。それは何も変わらない、ってことですよね。そういう意味では俳句っていうのは強いし、災難があっても本質は変わらない。だから俳句があってよかったなって思うし、詩や歌を持ってる人たちっていうのはいいですよね。
村上:僕も毎日、自分の中でこれやろうと決めて過ごしてるんですけれども、俳句に関しては軽くしか作ってないんですけど、なんとなく作る分には創作っていうのはストレス発散としてすごくいいものなんですよ。それはうまかろうが下手だろうが、もう関係なくて。それで、だんだんやっていけば人に褒めてほしくなるんですけど、今は家にいても SNS があれば誰とでもつながれるじゃないですか。そういう意味で、俳句や短歌っていう、ある程度は感性なんだけれども、何割かは技術や練習で埋められるっていうものはすごくいいと思うんですよね。
いま小説をいきなり書け、って言われたら技術はあるんでしょうけど、SNS で気軽に発信するにはちょっと遠いと思うんですよ。それはブログでもいいんだけれども、どうしても本当の思いをつらつら書くと、愚痴や悪口や拒絶が本音っぽく見えちゃうじゃないですか。それはあんまり今はよくないかな、と思っていて。俳句とか短歌とか、オリジナルのラブソングを作るのでもいいんだけど、創作である程度自分から切り離されたものを作るのは、すごく健康的だと思います!
【俳句修行は来月に続きます!】