それはオレンジを飾ったチョコレートケーキだった。(中略)甘い香りとともにオレンジの味が口中に広がった。オレンジはひんやりと冷たく柔らかく、みずみずしい。さくっとしたチョコレートのケーキを噛むと、中から熱いチョコレートがあふれ出した。甘くて苦くてミルクの味。オレンジとチョコレートがひとつになって口の中をぐるぐると回った。(中略)「おいしい。金メダルの味がする」(『金メダルのケーキ』より)
残念ながら、今年の東京オリンピック開催は延期になりましたが、今回の「食いしんぼん」は、お菓子で金メダルを目指す二人の女の子のお話をご紹介します。物語の始まりは1964年、東京オリンピック女子バレーボール決勝戦の日。パーティー会場で出会った明日実と未来(みら)は、フランスからやってきた菓子職人・ソフィのチョコレートケーキを食べて「自分もこんなケーキを作れる職人になりたい!」という夢を抱きます。月日は流れ、高校生になった二人は再会し、「世界一のパティシエになる」という目標に向かって切磋琢磨する、夢と友情の物語です。作者の中島久枝さんにお話をうかがいました。
チョコレートはとても複雑で、大人の世界
——中島さんは特に和菓子に関する著書を多くご執筆されていらっしゃいますが、本作で洋菓子、しかも生ケーキを題材に選ばれた理由を教えてください。
ライター時代にケーキの取材もたくさんしていたのですが、その当時ケーキの世界はまだ新しい分野で、若く力のある人が登場して注目され、生ケーキでは今までにない美味しさが紹介されていました。活気があって、ワクワクドキドキする世界でしたね。『7人のパティシエ』(パルコ出版)という本の編集に携わった時、パティシエの方々に「なぜ菓子の道に進んだのか」、「フランスなどでは何をどんな風に学んだのか」をインタビューしたんです。それぞれの「青春ストーリー」が楽しくて「いつかこういう人々の物語を書きたい」という夢を持ちました。ただ、実際に物語として組み立てるには、フランスで修業する若者というのは私の手に余ります。そこで、本作では環境も性格も違う二人の女子高生を主人公にしました。
——本作は、1964年、東京オリンピックの年から物語が始まります。当時はまだ「パティシエ」という言葉が日本ではあまり浸透していなかったと思いますが、中島さんの東京オリンピックの思い出を教えてください。
当時、私は小学校4年生でした。通っていた学校が競技場に近かったため、通学時に何か危険があるかもしれないからと、東京オリンピックの期間中は学校が2週間まるまる休みになったため、毎日宿題をしながらテレビばかり見ていました。重量挙げで金メダルを取った旧ソ連のレオニード・ジャボチンスキーなど選手の名前もたくさん覚えました。
「東京オリンピック」の映画も記憶に残っています。陸上の依田郁子選手が試合の直前にでんぐり返しをして緊張をほぐしているんです。私はあがり症なので、依田選手もきっと心臓が破裂しそうにドキドキしているんだろうなと感じました。
——中島さんが初めて食べたのはどんなケーキでしたか?
子どものころ自由が丘に住んでいたので、洋菓子店は「不二家」と「モンブラン」と「風月堂」がありました。家にいらっしゃるお客さまには「モンブラン」のケーキを買います。「モンブラン」のイチゴのショートケーキは憧れでした。生クリームがとろけるようで、イチゴが甘酸っぱくて、スポンジの部分もふわふわでした。「風月堂」は、当時としてはめずらしいソフトクリームが売っていて、カリカリのコーンと一緒に食べるのも大好きでした。
——パティシエとしての技術はあるものの現実的な明日実と、技術はさほどないけれど、抜群の味覚を持ち、自分のアイデアを信じる未来。育った環境も性格も違う二人に共通するのが「ケーキが好き」という気持ちと、パティシエになりたいという夢のきっかけになった「オレンジのチョコレートケーキ」です。このケーキに込めた思いを教えてください。
二人の夢の水先案内人となるケーキなので、みずみずしく、驚きや意外性のあるものとしてこのチョコレートケーキを考えました。元々、チョコレートとオレンジは相性のいい素材です。オレンジのさわやかな酸味がチョコレートのほろ苦さによく合うんです。濃厚なチョコレートに柑橘系の香りが加わることによって、軽やかになります。このケーキを二人が食べた描写の部分は、映画だったら万華鏡のように様々なイメージがパッパと切り替わりながら、画面全体にくるくると回るような感じだろうなと思いながら書きました。
——たくさんあるケーキの中で、なぜ明日実と未来が目を奪われたのが「オレンジとチョコレートケーキ」だったのでしょうか。
板チョコしか知らなかった私が、お土産でいただいたフランスのチョコレートを食べたときは衝撃でした。チョコレートは甘いだけではなくて、苦さがあり、酸味も感じる。香りも花や果実など、とても複雑です。大人の世界を垣間見たような気がしました。憧れのフランス菓子、大人の世界をイメージしたときにそのことが思い出され、このチョコレートケーキになりました。
——中島さんが今までに心奪われたチョコレートケーキを教えてください。
私自身が心を奪われたのは「クーラン」というチョコレートケーキです。サクッとしたビスキュイにナイフを入れると、温かなチョコレートがとろっと流れ出てきて、それを冷たいアイスクリームとからめていただきます。口の中で温かいものと冷たいもの、軽やかなものと濃厚なものが混じり合い、どんどん変化していく。ケーキに「時」という要素が入っているというのは驚きでした。
——これまでに召し上がってきた中で「金メダル級」の味だったケーキはありましたか?
小学生のころ友達の家に遊びに行くと、その家のお母さんがゼリーを作ってくれました。大きく作って切り分けるのですが、それがイチゴとグレープ、レモンの三段重ねになっていたんです。当時我が家は畳の部屋だったのですが、その家は洋風な造りで、「おしゃれな家の上品なお母さん」と「三段重ねのきれいなゼリー」は私の中で一つになって、今でも美味しい記憶として残っています。