Black Lives Matter 黒人の命は大切だ
「自由」という言葉を聞くと
僕は泣きそうになる。
僕の知ることを知ったなら
なぜか君にもわかるだろう。
ハーレムの桂冠(けいかん)詩人ラングストン・ヒューズがこう歌ったのは、1943年のこと(拙訳)。第2次大戦中の米国では、黒人隔離政策が根を下ろしていた。「死んでからの自由など必要はない」。詩人の言葉は平明だ。
「自由の国」を自任する米国において、自由や平等が所与や特権ではなく、希求し続けるものだと理解してきたのは少数派、とりわけ黒人であった。ジェファソンによる「すべての人は平等に造られ、生命、自由、幸福の追求を天賦の権利として有する」という独立宣言の文言が生き延びたのは、ひとえに彼らの闘いによる。それがなければ、黒人奴隷制の上に接ぎ木された高邁(こうまい)な理念は欺瞞(ぎまん)として響くだけだったろう。
そして今日。白人警官によるジョージ・フロイド氏殺害をきっかけに再燃した「黒人の命は大切だ(ブラックライブズマター)」という叫びを前に、対立する人々は「すべての命は大切だ」と嘯(うそぶ)く。しかし、これが差別の実態を隠蔽(いんぺい)する偽りの言葉であることは一目瞭然だ。
かくも苦難の道
命を脅かされ、尊厳を奪われるなかで、いかに自分の身体と人間性とを取り戻すか。手引きとしたいのが、タナハシ・コーツの『世界と僕のあいだに』である。原著刊行は、白人警官による黒人への暴行事件が頻発していた2015年。動揺する10代の息子に、彼は自分の半生を語りかける。暴力や麻薬、恐怖が蔓延(まんえん)する1980年代のボルチモアで過ごした少年時代。伝統ある黒人大学に進学後、構内で目にしたのは、離散を強いられてきた黒人世界の多様性でありコスモポリタニズムだった。シカゴの黒人街からパリへ、旅を通じて自分と世界との繫(つな)がりを再発見していく道のり。しかし、若い世代の可能性に期待しながらも、黒人の身体が常に危険に晒(さら)される現実は否定できない。希望と失意との落差が痛切だ。
昨年逝去したトニ・モリスンの『ビラヴド』は、黒人が直面する暴力の極限に踏み込んだ小説だ。南北戦争前、北部へ逃亡した母親が、奴隷捕獲人の前で自らの子どもを殺(あや)めた実話に着想を得た物語。殺された子「ビラヴド」は幽霊となって母親の家に取り憑(つ)き、姿をあらわす。しかし、暴力の犠牲者は彼女だけではない。母親も同居する男性も、奴隷として心身を仮借なく傷つけられていた。モリスンは、事件の道徳的意味を殺された子を通じて問いながら、奴隷として生かすよりも殺すことを選択した母親の究極の愛と、虐げられた身体と人間性とを取り戻す苦難の歩みとを描き出す。
「すべての」人に
現在を容赦なく照射する歴史の重みと、再生産される暴力。そこから語られる理念は強靱(きょうじん)さを帯びていく。それを示すのが、『アメリカの黒人演説集』だ。奴隷廃止論者からオバマまで、読み応えのある一冊だが、瞠目(どうもく)すべきはデイヴィッド・ウォーカーの「訴え」(1829年)である。黒人の劣等性を縷々(るる)論じ、黒い肌を不幸な色と決めつけたジェファソンに反駁(はんばく)し、自分は神がわれわれを黒い肌に造られたことに感謝しており、自分たちが白人になりたいと望んでいると考えるのは大いなる誤解だと断言する。それは、黒人を「すべての人」に含むことを想像すらできなかったジェファソンへの痛烈な一撃だ。
コーツやモリスンは、「人種」は実態ではなく「人種主義」が作り出したものだと明言する。とすれば、問題の鍵は肌の色を超えたところにあるのだろう。そう、「黒人の命は大切だ」は、黒人だけでなく、身体と人間性とを収奪された難民や移民を含むすべての人々のために響き渡っているのである。=朝日新聞2020年7月18日掲載