グリーンランド北部の伝統食にキビヤというものがある。アッパリアスという小さな海鳥を三カ月弱、岩の下に寝かせた発酵食品で、これがまた鼻が曲がるほど臭い。
見た目も食べ方もグロテスクである。羽もむしらずに獲った状態のまま鳥を海豹(あざらし)の皮に詰めこんで放置するので、脂で濡れた死骸にしか見えない。手羽を捩(ねじ)り取り、皮をはぎ、歯で腿肉(ももにく)や胸肉を引きちぎって食う。胸骨をむしり取った後は半ば溶けた内臓をすすり、頭骨を齧(かじ)って穴をあけて脳髄も吸いだす。手も口も血まみれとなる。
発酵と腐敗の境界線はかなり曖昧(あいまい)なようで、要するに食べる人の価値観次第というところがあるらしい。人によってキビヤはとても口には運べない「野蛮」な肉に見えるだろうから、そうなるとこれは立派な腐肉ということになる。野鳥の腐肉を生のまま内臓から糞まで全部食べる。それがキビヤだ。
イヌイットの食文化ではアッパリアスだけでなく海豹の肉なども発酵させることがある。発酵させることをイフアンヌというが、生肉食でビタミンを補給してきた歴史があるせいか、わりと何でもイフアンヌにするようである。鴨(かも)の卵までイフアンヌにしてしまうから驚きである。さすがにこれはちょっと硫化水素っぽい臭いがきつくて好きにはなれないのであるが……。
とはいえ他の発酵肉は慣れたら癖になり、味がシンプルなだけに、もうこれがなくては我慢できない、というほど旨くなる。私も今ではすっかり味覚が変質し、近年は毎年キビヤを自製するようになった。
五月中旬になると村の近くにアッパリアスが繁殖のために飛来するので、これを友達と二人で一気に三百羽ぐらいたも網で捕獲する。海豹の皮袋に詰めこんでゆき、ぱんぱんになったら穴を糸で縫ってふさいで、岩を上に積みあげて塚のようにする。その後、私は帰国するが、八月の頭には出来上がるので、友人が掘りだして冷凍庫で保管し、冬に私が村を再訪したときに持ってきてくれる段取りになっている。
真冬に村の近くで犬橇(いぬぞり)の訓練をしている間、このキビヤが私の主食となる。極夜の闇のなか、氷点下三十度の寒さに震えながら犬橇をして、腹をすかせた後に食べるキビヤの旨いことといったらない。グリーンランドでは海豹、海象(せいうち)、ときに白熊の肉を食べることもあるが、でも日本にもどって何が一番食いたくなるかというと、やはりキビヤだ。今も食いたい。涎(よだれ)が出る。今日の昼飯はラーメンだが、本当はキビヤが食べたいのである。=朝日新聞2020年8月1日掲載