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「霧の彼方 須賀敦子」書評 精神性を求め実践した人の信仰

評者: 宇野重規 / 朝⽇新聞掲載:2020年09月05日
霧の彼方須賀敦子 著者:若松英輔 出版社:集英社 ジャンル:日本の小説・文学

ISBN: 9784087716719
発売⽇: 2020/06/26
サイズ: 20cm/471,6p

生涯にわたり信仰と文学の「コトバ」に共振し、晩年に稀有な作品を遺した須賀敦子。その魅力の源泉とは。さまざまな出会いによって導かれた、「たましい」の旅を描く評伝。『すばる』…

霧の彼方 須賀敦子 [著]若松英輔

 人間の精神を表現する媒体として、現代日本語がどれほど適しているかわからない。しかし、もし須賀敦子という存在がなければ、その射程と奥行きはだいぶ違ったものになったであろう。とはいえ、私たちの知っている須賀のイメージは、『ミラノ 霧の風景』による晩年の鮮烈な「デビュー」以降の時期に偏りがちだ。しかし、エッセーとも小説とも分類しがたい須賀の豊穣(ほうじょう)な文章世界が開花する以前も、彼女は優れた日伊の翻訳家であったし、廃品回収によって貧困者救済を目指すエマウス運動の活動家でもあった。本書はいわば、私たちの知る「須賀敦子」以前の彼女の精神の軌跡を丁寧に再検討する。
 とくに重要なのは、須賀の信仰である。カトリックの洗礼を受け、イタリアではカトリック左派の拠点であるコルシア書店で活躍した須賀であるが、彼女の作品に信仰の内容が詳しく表現されているわけではない。それは須賀にとってあまりに身近なものだったからかもしれないし、狭い意味での教会を超えた彼女の精神的模索が、人生の最後まで続いたからかもしれない。自ら信仰を持つ本書の著者は、ローマ教皇ヨハネ二十三世、ハンナ・アーレント、エマニュエル・ムーニエ、サン=テグジュペリなどを伏線に、須賀にとって「カトリック」とは何であったのかを考えていく。
 自らの内に、自らを超えた大いなるものの声を聞き、貧困など多くの苦しみに満ちたこの世界における自らの使命を知る。そしてそれを思想にとどめるのではなく、生活のうちに実践する。留学したフランスで失望し、道を見失いつつあったときにイタリアで新たな仲間たちを見いだした須賀が、「信仰」に求めたものは何であったのか。それはどのように結実したのか。
 須賀の書いた文章を愛する読者はもちろん、ヨーロッパと日本の間で精神性を真摯に追い求めた一人の女性について知りたい人に薦めたい一冊である。
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 わかまつ・えいすけ 1968年生まれ。批評家、随筆家。東京工業大教授。著書に『小林秀雄 美しい花』など。