キャリアのスタートは19歳
――増田さんといえば、きゃりーぱみゅぱみゅさんのMVがきっかけで名前を知った人も多いですよね。
きゃりーちゃんの「PONPONPON」が注目されるきっかけではあるけど、演劇や現代美術の世界で19歳くらいから活動を始めたので、アーティストとしてのキャリアのスタートはそれよりも20年ほど前なんです。寺山修司さんの考え方に影響を受けて、最初は寺山さんに影響を受けたという劇団に入りました。演出家になりたかったんですが、そこで制作や大道具、演者も経験しました。その後、現代美術家のお手伝いに誘われて参加しながら、自分でパフォーマンスグループを主宰して、そのメンバーと「6%DOKIDOKI」を立ち上げるんです。
6%DOKIDOKIも最初は食えなかったので、合間にテレビ局や歌舞伎座の大道具として舞台を作ってましたね。当時は演劇の活動に役立てばとは思っていたけど、それがまさかアーティスト活動の肥やしになるとは思っていませんでした。無駄なことはないんだ、何でもやっておくべきだなって。
――増田さんは原宿文化との関わりが強いイメージがありますが、出身は千葉県松戸市ということで、どういう経緯で原宿文化とつながったんですか?
絵が描けて、それ以外にもいろんなものを生み出して……小学生の頃は天才でしたね(笑)。でも中学生になると、僕たちの時代はヤンキー文化の全盛期で、周囲の人たちとなじめなかった。一方で、当時はホコ天やバンドブームの時代でもあり、特に原宿は独特の文化を形成していました。原宿は自分と似た感性の人が集まっているように思えて、よく遊びに行くようになったんです。
――当時の原宿はどんな街だったんでしょう?
以前は原宿駅前にテント村と呼ばれる屋台の並びがあって、手作りのアクセサリーや革ジャンなんかが売られていました。でも僕は、当時はお金がないから婦人服店でスカーフを買って巻いたり、代々木で拾ったジャージを着たり。今考えるとダサいですね(笑)。そうやって、みんなよく分からないファッションをしていました。竹下通りを抜けて明治通りを越えた裏原エリアは中学生からすると実はカツアゲされやすいスポットだったんです。だから怖い街というイメージ(笑)。歩行者天国の竹の子族やバンドを見るために、竹下通りにあった半地下で野宿したのも思い出です。
――当時からユニークなエリアだったんですね。ただ、そうした文化の根本みたいなものは、今と変わらないようにも思えます。
そうですね。学歴や年齢も関係なく自由でいられる雰囲気は当時からありました。
原宿なら自分を理解してくれる
――今では原宿に対して、増田さんの作品に近いイメージを持つ人は多いと思います。そのイメージを増田さんが作っていったという感覚はありますか?
19歳からそれこそいろんな場所で活動をしていたけど、思うように評価を得られなかった。そんな中で1995年、25歳で原宿に「6%DOKIDOKI」という雑貨とアパレルのお店をオープンして、お店は次第に知られる存在になっていきました。90年代に起きた裏原ブームの中心は、「UNDERCOVER」や「A BATHING APE」のようなメンズカルチャー。当時の裏原は、乾物屋さんや定食屋さんなどが集まる裏通りの商店街で、家賃が安かった。そこにお金がない若い人たちが集まってお店を出していったんです。それでメンズカルチャーに火がつき、やがて雑誌の「Zipper」や「CUTiE」などでガールズカルチャーも盛り上がっていくタイミングで、「6%DOKIDOKI」の表現がマッチしたんでしょうね。
90年代当時、通ってくれていたのは芸能人だと篠原ともえちゃんや千秋ちゃんとか。時代のアイコンとなる女の子が僕のテイストに触れて、それがメディアを通して広がり、原宿のイメージがついてきたように思えます。だから実際は、ストリートの子たちが、原宿で生まれたそれまでにないものを取り入れることで、時代を作っていったんだと思います。
一方でその頃の僕は「6%DOKIDOKI」が支持されるようになったものの、やっぱり作品を作りたい衝動に駆られて、じゃあどこで発表しようかと。それで、原宿の人たちだったら自分のことを理解してくれるんじゃないかという希望を抱いて、原宿をメインにアーティスト活動するようになりました。
――当初はなかなか評価されなかったということですが、どんなことをしていたんですか?
90年代、20代前半の頃にやったのは、1トンの生クリームで巨大なケーキを作って、その上に女の子を立たせておもちゃの車で突っ込むとか。場所はライブハウスやクラブ。パフォーマンスアートと呼ばれる作品が中心ですね。
――いや、おもしろそうじゃないですか。
たくさんの人が集まってくれたし、実際に楽しんでくれていたと思います。ただ、評論家ウケがすごく悪かったんです……。パフォーマンス後に美術評論家に呼ばれて「こんなのがアートなら日本はおしまいだ!」って1時間ぐらい説教されたり。雑誌で2ページに跨いで酷評されることもあったし、非難の手紙が届くこともありました。まだどこかに残っているから、僕がもっと大御所になったら公開しようかな(笑)。とにかく、最高で新しいことをやっているはずなのに、アートの文脈の人からはちっとも受け入れられない。僕としては、作品を通してみんなを驚かせるという、子供の頃から変わらず楽しいことをやっていたかっただけなんです。でも「幼稚」だとか「アートじゃない」とか言われて、自分は才能がないんだと悩みましたね。
90年代は、モノクロで機械を使うようなかっこいいテーマが流行っていたのも関係しているかもしれないですね。それでも僕は子供の無邪気さや好奇心ゆえの残虐性みたいなのが好きだった。小さい子って無邪気にアリやカエルを潰すじゃないですか? 残虐だけど衝動があって、そこにクリエイティブの源があるような気がする。当時から、それを大人の目線でやりたいと思っていたんです。
引きこもり、寺山修司との出合い
――そもそも、本格的にアーティスト活動をするきっかけは何だったんでしょう?
ヤンキーがモテる時代をさまよい、たどり着いたのが原宿。高校卒業後は周りにいる悪い友達と手を切りたいということもあって、大阪の専門学校に行くことにしました。でも大阪に行ったら行ったで、バイトでは殴られたり関西弁で怒鳴られたり。それがトラウマで、一時期、引きこもりになってしまったんです。それからは、やることがないので仕方なく、当時流れていたダウンタウンさん司会のバラエティ「4時ですよーだ」のビデオを録画してました。
「4時ですよーだ」は月曜から金曜までオンエアされていたので、平日は毎日、番組をビデオに録画して、背表紙にタイトルとオンエア日を書いて、本棚にきちんと並べる。それしかやっていなかったですね。
——前衛的な過ごし方ですね……。
そうですね(笑)。しばらくそんな生活を続けて、さすがにこれじゃいけないと思って、図書館に通い始めて。人生の悩みを抱えながら手当たり次第に本を読むようになりました。そこで出合ったのが、寺山修司さんの『書を捨てよ、町へ出よう』です。初版の装丁は横尾忠則さんのインパクトが強いイラストだったから、それで手に取ったのかも。読んでみると、なんだかよく分からないんですが、とにかく言葉に煽られて気持ちが上がっていく。当時の僕は「本なんか読んでないで町を出て行動しろ」というメッセージだと受け止めたんですね。それで引きこもりから脱して東京に帰り、OM-2という劇団に入るわけです。
——そうなると『書を捨てよ、町へ出よう』との出合いは人生の分岐点だったと。
本当に重要な一冊だと思います。以前、テレビ番組の取材で、大阪で通っていた図書館を訪れたんですが、当時読んでいた『書を捨てよ、町へ出よう』がボロボロの状態で書庫に保管されていて、感動しましたね。
松戸の祭りが増田作品の原風景
――色彩豊かな増田さんの作風はどのように確立されたのでしょう?
今も多少そうなんですが、3歳ぐらいまで耳が不自由だったんです。聞こえない音域がある。そんな僕にとって、世界は、視覚からの情報を中心に構成されていた。それゆえに、人よりも色彩の部分で精鋭されているのかもしれません。あと、育った環境もあると思います。商店街にある呉服屋の息子として生まれたので、色とりどりの着物だったり、お祭りの風景だったりが身近だった。作品の制作過程で、そういう原風景が自分の中ですごく強調されているのを感じます。
――今回おじゃましているKAWAII MONSTER CAFE(原宿)も増田さんがプロデュースされたということで、ワクワク感がすごいですよね。
正直、アートとかエンタメだとか、アウトプットの手段はどうでもいいんです。いつもメッセージがあってそれをビジュアル化してる。カラフルで衝撃的な「カワイイ」でみんなを驚かせて生きていきたいだけ。だから肩書きも、本当はアーティストだろうがアートディレクターだろうが何でもいいんです。
――増田さんにとって、日本の「カワイイ」とはどんなものでしょうか。どうして多くの外国の方に支持されているかも気になります。
ちゃんと説明するには5時間ぐらいかかってしまうんですが(笑)。まあ簡単に言うと「カワイイ」は日本人が元々持っている感性で、だからこそ日本では存在が軽んじられているものだと考えています。
海外の人から映る日本人のイメージは、繊細で気配りができてディティールを大切にする。そしてもう一つ、モノに対しての思い入れが強い。例えば、日本人は道にある小さなお地蔵様にも魂が宿っていると信じて生きているけど、海外の人たちにとって、それらはただの石に見えるんです。そういう感性が日本人には備わっているので「カワイイ」も物体に宿ると知っている。
一方、一昔前は海外にキャラクターなんてほとんど存在しなかったし、ヨーロッパの街を歩いてもキャラクターの看板なんてないですよね? 警察とか役所のキャラクターやご当地キャラみたいなのもいないし。具象化して愛でて、なごんだり優しくなれたりするのは、日本人に特化した感性だと思います。
――海外の人の方が「カワイイ」を受け入れる度量があるというか。好きなモノに対して自由な気がしますが違うんでしょうか?
例えば、極端な言い方ですが、そういうファッションでニューヨークの地下鉄に入れば「変なやつがいる」って攻撃される対象になるんです。でも、そこに勇気が必要になるからこそ「カワイイ」がたんなるファッションではなく、アイデンティティとして定着している側面はあると思います。誰かのためではなく、自分のためなんです。キャラクターのタトゥーを入れるのもそう。そういう意味では、海外の人の方が、自分に「カワイイ」が必要だと自覚的です。
ちょうど今、世界各国の人たちとZoomでミーティングする「Kawaii Tribe Session」を開催したり、Instagramで「FRIDAY QUESTION」という質問を投稿したり、「カワイイ」をみんなに考えてもらうための取り組みをしているんですよ。そして分かったのは、多くの人にとって「カワイイ」は、たんにモノを指すだけでなく、自分を解放するための大切な拠り所であること。周囲から好奇の目で見られたとしても、好きなことに夢中になることで自信を持てる人が多いんです。
だから僕は、アートで「カワイイ」を広めることで、人々が多様性を認め合い平和になれると伝えていきたい。そのためには、カラフルな洋服やアクセサリーなど、表面的な部分で語られることが多い「カワイイ」を、哲学として確立させ、次世代に残していく必要があると考えています。
10年間を詰め込んだ初の作品集を刊行
――7月30日に発売された『増田セバスチャンアートワークス PAINT IT, COLORFUL』(玄光社)は、増田さんにとって初の作品集ということですが、どのような本になっていますか?
活動期間はさておき、僕は自分のことを、2011年の東日本大震災以降のアーティストだと思っています。それ以前の日本の空気感は、ダウンタウンの浜ちゃんがジョージアのCMで「明日がある」って歌っていたような、「気楽に行こうよ」みたいな感じ。でも震災をきっかけに、多くの人が「明日はないのかも」と気づいた。そして「明日がなければ何をするか?」を突きつけられた人たちの間で、好きなことを自由にやろうという考え方が強まっていったと思います。
もちろん、同じ年にきゃりーぱみゅぱみゅというアイコンが出てきたのも要因だし、いろんなタイミングが重なったわけですが、僕がアートを通して伝えたいコンセプトはずっと変わっていなくて。日本の空気感が変わったからこそ、注目されたと思っています。
そのあたりのタイミング、2010年から19年という10年分のアートワークが入っているのが『増田セバスチャンアートワークス PAINT IT, COLORFUL』です。見てもらえるとすごいボリュームですが、それでも半分くらいは載せられないものもありました。作品写真の他にスケッチなども載せていて、僕にとって大切な10年間が詰まった初の作品集であり、こういったかたちの本は今後出ないかもしれませんね。2020年からまた新しい時代に入ったので、これからの活動をまとめる時はまた違ったかたちなのかなと思います。
――本といえば、増田さんは読書をされますか? 好きな作家さんなど聞きたいです。
小さい頃から好きだったけど、18〜19歳あたりの読書量が特に多く、何千冊と読みました。なんせビデオのラベル貼り以外にやることがなかったので(笑)。そんな中でもやっぱり寺山修司さんが好きですね。「言葉のチョイス」「リズム」「ビジュアル」の3つを兼ね備えていたと思います。詩人なのもあって、スッと入ってくる感じや言葉が持つ重み、漢字、カタカナ、平仮名で異なるビジュアルを駆使して読み手にどういう印象を与えるか、それらをうまく操っている印象です。
読書が好きなのもあってか、僕は作品を作る際に「言葉」を最初に考えます。アートを作る理由は、その先に届けたいメッセージがあるから。だからアートであっても、その根幹にあるのは言葉なんですね。
――読書がアーティスト活動に役立っていることもありそうですね。
作品の題材を考える際に、本を読んでインスパイアされることはあります。近頃は童話を読むことが多いですね。『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)や『チョコレート工場の秘密』(ロアルド・ダール)とか、小さい頃に読んだ物語を、大人になった自分がどう解釈するのかを考えながら読みます。
最近読み返したのはミヒャエル・エンデの『モモ』。劇場の廃墟に住む女の子が、人々の時間を盗む男たちからそれを取り戻すという物語。新型コロナの影響で、多くの人は自由にできる時間が増えた中で、忙しかったかつてとどっちが幸せだったかを考えたりします。もう一つ、寺山修司さんのアシスタントである田中未知さんの、質問だけが書かれた『質問』。人や時代に対する普遍的な問いかけが多く、読みながら今の時代を紐解くヒントにしています。そう考えると、本は自分にとって、思考を深めていくための取っ掛かりのような存在ですね。
――増田さんが今後挑戦していきたいことは何でしょう?
教授をつとめている京都芸術大学で「カワイイ」文化のリサーチや研究を始めているんですが、日本で生まれた「カワイイ」は、多くの若者に響く概念なので、体系化させて次代に残していきたいと思います。それとは別に、やっぱり作品をたくさん作りたい。20代から変わらず自分の根底にあるのは、色彩と衝撃。見る人を驚かすことができるようなものを、なるべく多く作りたいと思っています。