終戦間もない旧満州の奉天。一組の男女が小さなコーヒー屋台で出会うシーンから物語は始まる。京都で半世紀以上愛される喫茶の名店「六曜社」のスタートは、ドラマチックだ。創業者である奥野實と八重子は、大陸から京都へ引き揚げて結婚。河原町通三条下ルに店を開く。3代に渡って受け継がれてきたその歴史を、京都新聞の樺山聡氏が綿密な取材で描き出した。
闇市で豆を買い、家族総出で店を切り盛りした戦後。学生、芸術家、作家などが出入りし、活気に溢(あふ)れた高度成長期。一家が人生の岐路に立つ場面で、他の喫茶店がさまざまに登場するのも面白い。
やがて3人の息子が店に関わるようになり、シンガー・ソングライターで三男の修は独自に自家焙煎(ばいせん)を開始。今は孫の薫平が、時代に合わせた店の経営を模索する。
老いや病、資金繰りの困難さ、家族のぶつかり合い。どこの家にもある葛藤や、時代の影響を受けたそれぞれの生き方が、色濃く映し出されるのが個人店なのだろう。祖父母や父たちが築いてきた、血の通った「空間を預かる責任が僕にはある」と、受け継ぐ薫平の言葉がすがすがしい。一杯のコーヒーを飲むために京都に行きたくなった。=朝日新聞2020年10月3日掲載