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朝井リョウさん作家生活10周年の新作「スター」インタビュー 作品の価値は何で測る?映像業界舞台に2青年の葛藤

文:瀧井朝世 写真:松嶋愛

出発点は「違和感」から

――新作『スター』は、朝日新聞に週1回のペースで連載された長篇小説です。主人公は二人いて、大学時代、同じ映画サークルに所属していた尚吾と紘。一緒に作った作品が新人の登竜門となる映画祭でグランプリを受賞し、卒業後に尚吾は名監督に弟子入り、紘はあるきっかけで映像をYouTubeにアップして話題となる。対照的な道を選んだ彼らのその後が交互に描かれていきますが、本作の発想はどこにあったのでしょうか。

 まず、テレビよりもYouTubeを観る時間のほうが圧倒的に多くなったとき、じゃあ今まで自分は何を面白いと感じていたんだろう、と思ったんです。芸能人や豪華なセットって自分に必要だったのかな、と。今は全然知らない人が自宅で撮影している動画を観ていたりして、それで平気なんです。じゃあ自分は本質的には何を観ていたんだろう、と。
 そんなことを考えている時に朝日新聞から連載の依頼をいただきました。昔は、私自身、自宅に届く新聞を捲っては「新聞で小説を連載するなんてすごい!」と思っていましたが、今、自分と同世代や年下の間では新聞に触れる人たちは少なくて、新聞に連載されている小説への関心も小さいです。何かが担保されている感のあった「新聞連載」という言葉の意味合いが変わってきたなと感じました。そういった様々な認識のズレが重なって、今作のテーマが定まっていきました。

――朝井さんは以前、小説の出発点となる感情が「怒り」であることが多いとおっしゃっていましたが、では今回は……。

 「怒り」や「違和感」から出発しているものが多いのですが、今回の場合は「違和感」です。
 YouTubeのことや新聞連載もそうですが、そもそも自分が「直木賞作家」と呼ばれ続けることへの違和感もありました。賞をいただいたのは7年以上も前だけど、今の自分がその肩書に応えられているかもわからないというか、その肩書に何かを担保してもらいすぎている気がします。私がこの先しばらく何も書かずにいて、10年ぶりに小説を書いたとしても、きっと「直木賞作家」と呼んでいただけますよね。それっていいんだっけ、という長年の疑問も、この小説の起点になっていると思います。

「質」や「本物」とは何か

――『スター』では、尚吾と紘がそれぞれに悩んだり成長したりしていく姿で面白く読ませますが、それぞれの業界での、異なる価値観も浮かび上がりますね。尚吾の師匠である監督は映画館での上映にこだわって動画配信を一切認めない人。一方、紘は凝った動画を作ろうとしても、質よりも量産することを求められる。

 週1回の連載として続きが楽しみになるように、立場の違う二人が抜きつ抜かれつしていく展開を考えました。来週はどうなるの、というエンタメっぽさを意識しました。
 今の時代、プロとアマチュアの境目が曖昧になっているジャンルというと映像と音楽なのかなと思い、今回は映像を選びました。最初は、YouTubeの世界で持たざる者が成り上がっていくドエンタメにしようかなとも考えたんです。そのほうが既得権益側が痛い目を見るような爽快感を演出できるだろうし、今の話っぽい。でもそういう話が書けるほど、今の風潮に対して疑問がないわけでもない。結局、どちらかを悪者にするよりも、新旧どちらのいいところも悪いところも書くことで、「こっちのほうがいいかも」「いや、あっちのほうがいいかも」と読む人の中の賛成・反対がくるくる変わっていく構成を目指しました。

――取材はされたのですか。

 YouTubeの管理画面を見たことがなかったので、それは朝日新聞の動画チャンネルを運営している方を紹介していただいて、操作画面でどういうデータが見られるのかなどを教えていただきました。映画については、雇用形態について制作会社の方に話を聞いたり、監督の方に、たとえば「作中でスクリプターの人がこういう言動をしたとして、絶対にないことはないですか」というような確認をとりました。

――作中にもありますが、なぜ今、テレビよりもYouTubeを見る人が増えているのだと思いますか。

 私個人の話になりますが、まずは時間配分だと思います。隙間時間や、たとえば洗い物をしている時とかに映像を観ることが多いんです。そうなると、作品にしっかりと向き合うよりも、ちょっとした時間にもすっと入り込んでくるもののほうが身近になっています。知らない人がべらべら喋っている動画とか、知らない人がご飯を食べているような、難しいことを何も訴えてこないものを選んでしまう。百の力が注がれた作品を鑑賞するのは体力を使うし、ちょっと空いただけの時間にそんな重いものは観られない。そうするとその楽さに慣れてしまって、向き合うものに体力が要るものからはどんどん遠ざかっていく。人間の脳は楽なほうに流れていくものなんだなと日々痛感しています。だから結局は、時間配分というより、観ていて楽だから、かもしれません。
 なので、たくさん観られているからといってそれが「素晴らしい」ものなのかというと、なんともいえないなと感じます。私自身、「素晴らしい」ものより「ちょうどいいもの」「自分を傷つけてこないもの」を選んでいるので。特に精神的につらい時ほどそうしたものしか受け入れられないですよね。なので、他人に対して「そんなものより社会派の作品やニュースや国際情勢を見なよ」みたいなことを強いるのも違うんだよなと感じています。

――「質が高いもの」「本物」のほうが価値があるように思われがちですが、読み進めていくと、じゃあ「質」や「本物」とは何なのか、と考えさせられます。

 そこから考えていったことが、作中の尚吾と、尚吾の恋人の千紗との対話などに繋がっていると思います。

――千紗は料理人を目指していて、勤務先のお店でいろいろあって彼女なりに考えている。紘との対話での千紗の言葉にはっとさせられました。他にも、この作品ではいろんな立場の人がいろんな持論を語ります。スクリプターの浅沼さんがすごく魅力的でしたし、正反対の立場の人同士でも、それぞれの言うことに説得力がありました。

 ありがとうございます。なんというか、主人公側に言わせたい台詞を引き出すためのサンドバッグ的なキャラクターを出さないようにしようと思っていたのですが、ひとり、そうなってしまった人がいるなと反省しています。できるだけ、作中に完全な悪者はいないよう心がけました。嫌なことを言う人でも、その言葉自体に読者が拒否反応を抱かないよう、その言葉が生まれるだけの理由、事情、背景を単行本化に向けて加筆しました。

「スター」がタイトルとして成立する時代

――いろんな意見を読むほどに、今は発信方法も消費方法もさまざまで、何が最良とは言えないと実感します。つまり現代は、老若男女みんなから人気を集めるスターが生まれにくい。本作のタイトルはあえての「スター」ですね。

 今は、「スター」という単語が小説のタイトルとして成立するくらい馴染みのないものになったんだなと思います。もう少し前ならば、たとえば「スターの栄枯盛衰が書かれた物語かな」みたいな想像をしたかもしれないけれど、今はそういう想像に当てはまる「スター」があまり思い浮かばない。というか、国民的な「スター」は本当に少ないけれど、各自にとってのスターはものすごくいる、というか。

――そう、各自にとってのスターや推しはいますよね。全国的に認知度が高いとはいえない、無数のスターがいる時代だともいえますね。

 有名無名関係なく誰かが誰かにとってのスター、という状態が沢山ある。それはとても優しい現象だと思います。ある人が、自分が本当に辛かった時に救ってくれた人のことを「スター」だと思っているのなら、それが詐欺師みたいな人だったとしても、そこにズカズカ踏み込んでいって「もっとちゃんとした人がいるよ」なんて言えない。
 私はK-POPも好きですが、ものすごい実力主義の世界に対して目がつぶれそうになるときもあります。その厳しさゆえにクオリティの高い作品が多く生まれていることを素晴らしいと思う一方で、歌や踊りが特別うまいわけじゃないけれど沢山の人に愛されているアイドルが日本にはいて、それを悪いこととする論調には頷けない。優しいまま素晴らしいものを生み出していくにはどうすればいいのか、という気持ちです。

――評価基準がさまざまであり、個人的になっていますよね。それは芸能界だけでなく、食やファッションなど、いろんな分野でいえること。

 今は発信が無数にあるので、自分の中のどの段階の欲求にも対応するものが見つかるんですよね。だから、そのときの自分にとって心地いいものに触れているだけで24時間365日が過ぎていく。それは素晴らしく快適なことだけれど、自分が拡張していかない。「今の自分じゃ分からないかもしれないけれど頑張ってあれを読んでみよう」「今の自分が向き合うには辛いかもしれないけど知ろうとしてみよう」といった、痛みを伴う一歩を踏み出しにくい実感があります。もちろん難易度が高いものが偉いというわけじゃないですけれど、人の興味や関心というものが、いよいよ分断されていっていますよね。

作者が黒子になる難しさ

――小説も同じですね。質を求める読者もいれば、分かりやすさや手軽さを求める読者もいて、いろんな小説があって……。その中で書き手としてはどう感じていますか。

 これをちゃんと書くと別の話が展開してしまう気がしたので作中ではさらっと触れただけなのですが、テレビの世界からYouTubeの世界に転職したキャラクターが「テレビが好きな自分と、もっと作品を観てもらいたいと思う自分がせめぎあった」というようなことを語るシーンがあります。逆に、作中の映画監督が映画館で上映することにこだわっているシーンもあります。「作品を生み出したならば、人が沢山いる場所に置かないと」という気持ちと、「そうすることによって自分が好きだった場所が変わってしまうのでは」という気持ち、どちらも私の中にあります。小説でも、質を高めたい気持ちがある一方、広く読んでもらうなら今は400ページ近い長篇だとハードルが高いんじゃないかとか、私の小説は主人公たちが内側で考える場面が長いけれど、広く読まれるように映像化を目指すならもっと起承転結があって台詞できちんと語る話にしたほうがいいんじゃないか、とか。

――広く届けることに重きをおくか、書きたいものを書きたいように書くのか…。

 同じように、自分が紙の本が好きなのか、物語を作ることが好きなのかについても考えます。物語を届けたいなら差し出し方は紙の本でも電子書籍でもいい、むしろ多様なほうがいいわけですが、作家によってはたとえば書店を守るために紙の本しか出さない、という方もいらっしゃいますよね。一方で環境面から考えると、ある程度裁断されることを前提に刷る紙の本って、持続可能性という意味では書店どころかもっと大きな範囲で何かを破壊しているのでは、となる。紙の本を選んだからといって環境破壊にYESなわけではないし、電子書籍を選んだからといって書店がどうなってもいいと思っているわけでもないですけど、書くことも読むことも長く続けていきたいなら、考えたくないことも考えないといけないのかなって。

――ネット上で小説を発表して人気を博する人もいますよね。

 そうですね。その場合、作者が黒子になる難しさと向き合うことになりそうです。まず発信していることを知ってもらわないといけないとなると……書き手は書くことに徹する、ということがますます難しくなっていく予感があります。書き手が黒子でいられることが小説の良さのひとつだと思うのですが、どんどんそうは言っていられなくなるのかなというか、もっと自分で自分のことを考えていかないと駄目なのかな、と思ったりしています。

――作中、映画のスクリプターの浅沼さんが「自分が有名になることが目的な人は、この業界に向いていない気がする」「結局、自分じゃなくて自分の創作物のほうが有名になってほしいっていう人じゃないと、最後まで粘れない世界なんだと思う」と語りますよね。それも、小説の世界に当てはまる気が。

 確かに、今、ゼロから“有名”になりたい人は小説を選ばない気がします、時間がかかるし費用対効果も悪すぎるので。私自身、小説を書いていると自分の欲望というか、自分が邪魔だなって思います、すごく。

――読者にとってですか、自分にとってですか。

 どちらもです。私には承認欲求も名誉欲もあるので、結局こうやってインタビューで自分の考えを話してしまいます。黒子になりきれず、作中に自分が出てきしまう。つまり、作者の情報込みで読ませているというか、作品単体の力で勝負できていないので、それがとても悩ましいです。
 山崎ナオコーラさんがデビューから15年以上経った今「性別非公表」にしている気持ち、すごくわかるんです。本人だって本当に性別が世間に知られていないとは思っていないだろうけれど、それでも「非公表です」と言った気持ちがわかる、というか。私は年齢などによって多くの読者に知っていただいた身ですが、そのうえで今さら、もっと黒子に徹して作者がどういう人か知らないままでも読んでもらえる作品を書けるようになりたいという気持ちがあります。
 ここでまた悩ましいのは、書く仕事を10年続けられた今、どこかで自分のルーツととことん向き合った作品を書くときがくるのでは、という予感もあることです。特に海外の作品を読んでいると、作者が自分の育った環境やルーツを見つめ直して書いたもののパワーの凄まじさを感じます。自分もいつか、これまで書くことを避けてきた核のような部分を小説にする日が来るかもしれないですが、それは黒子と真逆の動き方だなと。

――ああ、「作家だったら一度は自分の過去を見つめて書く行為をしたほうがいいのでは」と、他の作家の方がおっしゃっているのを聞いたことがあります。

 私、これまで一回もそんなことを考えたことなかったんです。でも本を出して10年経って、この先20年30年続けていくんだろうかと考えた時、この先、小説という形で自分ときちんと向き合うタイミングが来る予感が急に湧いたんです。そうしないと進めない場所がある気がするというか。
 たとえばデビュー時から徹底してシスターフッドを書いてきた柚木麻子さんは今、ご自身の母校を舞台にした「らんたん」という長篇を執筆中です。これはきっと、作者が自分のルーツを題材にしたときに生まれる、稀有なパワーを持った一作になるんじゃないでしょうか。一方で、今村夏子さんのように作中のどこにも作者を見つけられないタイプの小説を書かれる方もいらっしゃる。そういうタイプの書き手はまた違った方法でパワーを拡張していくのだと思います。
自分はどうなんだろうなあと最近よく考えます。

『スター』は「白版」、次回作は「黒版」

――朝井さんが今後どういう作品を書いて、それをどういう形で世に送り出していくのか、気になります。

 個人的なこともそうですが、今後の出版界のあり方、持続可能性という面についても、本当に考えていかないといけないのかなと思っています。これまでぼんやりと「こういう世の中になるかもね」と言っていたことが、「いよいよ本当にそうなる!」と、この一年で真に迫った気がしています。だから「1回ちょっとみんなで考えたほうがよくない? どうする?」みたいな気持ちです。
 同世代の書き手や、各出版社に勤める同世代の人たちは、結構同じような気持ちじゃないのかな。今まで“どうにかやってきたこと”というのは、いつか大崩れしますよね。ギリギリでまだ立てている今の状態のうちに動き出したほうがいいのでは、と思いつつ、それによって崩れるバランスはあるだろうし、難しい……でも土台にあるのは、書くことを読むことを未来に繋いでいきたいという気持ちだから、決して暗い話ではないと信じたいです。

――自分自身も含め、本気で考えていかねばならないと思いました。ところで、『スター』の帯に「白版」とありますね。「黒版」は新潮社から来年刊行だそうですが。

 来春、『正欲』という長編が出ます。こちらを「黒版」としていますが、『スター』と内容がリンクしているわけではないんです。2020年から作家生活10周年記念企画をはじめて、まずお祭り本として『発注いただきました!』を刊行しました。今回は、せっかく長編が2作あるので、10周年記念作品としてできるだけ多くの人に届く見せ方を考え、「白版」「黒版」と名付けてみました。「白版」の『スター』はエンタメっぽい読みやすさを意識しましたが、「黒版」の『正欲』はその対極にあるような作品です。その空気の違いで白と黒に分けました。私が頑張れば、来春、刊行できるはずです!